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タロイモの七転八起大陸自転車横断記 #09 政治と歴史、そして山々が織りなすジョージアとアルメニアの旅

長かったトルコの旅を終え、舞台はコーカサスへ。9月11日にジョージアへの国境を越えてから10月14日にイランへ入国するまで、34日間コーカサスを旅しました。美しい山々の間を縫って走りながらも、常に歴史と政治に翻弄されてきたこの地域の旅は、決して観光に留まりませんでした。



唐突なヨーロッパへの帰還、ジョージアへ

 トルコ最終日の朝は腹痛に襲われたため出発が遅れましたが、昼頃に走り出し途中の町でトルコ最後の食事を済ませ、国境へ。国境の手前15kmにわたって連なる税関待ちのトラックの列が印象的でした。
 入国審査はこれまでに比べれば若干厳しかったですが、それでも特に問題なく入国を済ませました。前の晩のキャンプ場で知り合ったバイク乗りのヨナスによれば、彼は国境でバイク保険への加入を要求されたとのこと。高額なので不審に思った彼が他の入国審査官に問い合わせたところ、そんなものは必要ないとのことだったらしいので、これを読まれている皆さんもお気を付けください。
 国境からバトゥミまではすぐ近く。トルコから一気に悪化した道路事情に最初こそ戸惑いましたが、文句を言う暇もなく宿に到着しました。シャワーを浴びてから、さっそくヨナスと夕食へ。日本でも近年知名度を獲得したシュクメルリ、それも本物を試しました。しかしながらこのシュクメルリ、とても正気とは思えない量のニンニクと塩が入っており、なんとか完食こそしたものの感想としては撃沈そのもの。その後数日胃腸の調子が崩れたことは言うまでもありません。ジョージア料理は全体的に、同じ料理名でも店によって大きく異なる場合があるので、ほかの店でも試してみればよかったと今になっては思うのですが、当時の私は完全にトラウマを植え付けられて、以後ジョージアでシュクメルリを食べることはありませんでした。
 翌日は天候が崩れるとの予報だったので、思い切って休みとしてバトゥミの街を歩き回りました。バトゥミの街は、基本的にはロシアの影響を強く受けたヨーロッパ風ではあるものの、近年の不動産バブル的様相を受けてそこかしこで高層ビルの建設が進んでいます。そういった街並みと、人々のヨーロッパ風の顔立ちもあり、私は唐突にヨーロッパに戻ってきたように感じました。
 結局この日は一瞬雨が降っただけで大して天候は崩れず、これならば走ってもよかったと思いながら床に就くことに。しかし翌日目を覚ますと、まさに豪雨。諦めて滞在を1日延長し、パキスタンビザの申請を済ませるなどしました。

バトゥミのシンボル、アリとニノの像。

 翌日になりようやく雨も上がり、チョハタウリの町まで走行。なんということはない道でしたが、案外高低差があったのと、明らかにトルコより狂暴になった犬が問題でした。この日の宿では、もう何年も泊まり込みで仕事をしている若いジョージア人弁護士と知り合い、ウォッカでの熱烈な歓迎を受けました。この先も蒸留酒での歓待を度々受け、それがまさにコーカサス流なのですが、イランへの国境を越えると同時にそれはぱたりと止みました。
 次の日はクタイシへ。前日と同じような道を走りながら、途中の食堂でジョージアの小籠包ともいうべきヒンカリを食べました。ヒンカリはもちもちとした小麦の皮に具とスープを包んだ、そのまま小籠包のような料理ですが、はるかに巨大です。これはまさにジョージアの国民食、シンボルというべき料理で、ヒンカリの形を模したお土産などはかなりの数があります。そして、この店のヒンカリは私のジョージア滞在中では一番でした。

この日の店ではないが、ジョージアといえばヒンカリ。

 クタイシの宿は特に日本人の間で有名らしい、主人の飲み会芸が有名なゲストハウスへ。高齢のためもうかつてほどには飲んでいないとのことでしたが、それでも私一人の為に圧巻の芸の数々を見せてくれました。彼は自宅の地下で自家製ワインとチャチャ(ジョージアの蒸留酒)の醸造を行っており、それらが半ば強制的に振舞われたことはいうまでもありません。

クタイシの宿での一枚。

 クタイシを発った日は、途中なぜか人里離れた場所にポツンとあったトルコ料理屋で昼食を食べた後、ウビサという小さな山間の村のゲストハウスに投宿しました。翌日は朝一番から峠越えをし、その降りの途中でスイス人サイクリストと知り合いました。彼女とはその後の分岐で別れたものの、とりあえずトビリシでまた会おうということで連絡先を交換。その後はゴリへ到着し、町はずれの寂れた工場群と完全な姿を保ったソ連時代の団地群に圧倒されながらも、無事にゲストハウスへ。特に何をするでもなく、夕食を食べてそのまま就寝しました。
 翌日はまずスターリン博物館へ。実はこの町、かのソヴィエトの独裁者スターリンの出生地であるのです。スターリンは正真正銘のジョージア人ですが、一方でジョージアの反露感情は強く、彼の扱いにはかなり難しいものがあります。肝心の博物館にはロシア人、インド人、そして中国人観光客の姿が多く、私などは中国人観光客に頼まれて中国共産党がスターリンに贈った旗と彼らの記念撮影をしたのですが、彼らが地元ジョージア人からどのように見られているのかは大変気になりました。
 その後いったん宿に戻った際に、2008年のロシア軍の侵攻によってゴリが占領された際どうしていたのかを主人に聞いたのですが、やはり家族でトビリシへ避難していたとのことでした。ゴリの市街地には弾痕も残っているようで、そしてゴリとトビリシの間の高速道路はロシアによる傀儡国家である南オセチア共和国の国境まで一時1kmを切る距離まで接近しますから、この日ゴリからトビリシまで走った間には、そういったことを色々考えました。

トビリシの手前、ムツヘタの修道院。この後豪雨に捕まった。

その後トビリシに近づくにつれ交通は混雑を増し、市街地へ入ったころには突然の大雨と無秩序な運転で私は全くの混沌の中にいました。なんとか気を保って宿に着いた頃には濡れ鼠、温かいシャワーを浴びて生き返ってすぐに、またまたヨナスと食事に出かけました。

荷物を待ち、トビリシに留め置かれる日々

 さて前回のトルコ編でも書きましたが、この頃には愛車のフロントフォークに問題を抱えており、新しいものに交換する必要がありました。長い間インターネットを探し回り最後には何とか適合する理想的なフロントフォークを発見したのですが、これをドイツから取り寄せるのにまた長い時間がかかったのです。トビリシから先に、トビリシ以上に荷物を楽に受け取れる場所が無いことはわかり切っていましたから、他の場所に先回りして送るということもできず結局トビリシにて荷物の到着を待ち続けることになりました。税関で引っかかったことはもはや予定調和と言えるでしょう。
 到着してすぐの日には、以前から恐れていたアゼルバイジャンによるナゴルノ=カラバフ地域への再侵攻が発生。すぐ後にアルメニア南部を通過してイランへ入る予定でしたから、一気に不確実化した情勢に緊張を覚えました。
 しかしそんなトビリシの日々は実に楽しく、リラックスしたものだったことを覚えています。概して滞在費が安い一方で、街は国際色にあふれ、世界各国の人々、料理が集まっています。日本人経営の和食店も複数あったので、故郷の味で自分を慰めることが久しぶりに叶いました。早い段階で前述のスイス人サイクリストと一度会い、後々に困難が予想されたアルメニア南部をもう一人のサイクリストも交えて走行する約束を交わしました。
少し落ち着いてからは、他の数人を交えて市内の入浴施設へ。トビリシは実は温泉で知られる街なのです。適温の温泉にどっぷり浸かって身体を癒すことは、やはり他では代えられません。湯上りに一杯ビールを飲む、これもまた堪りません。
また別の日にはバスツアーに参加して、ジョージア東部のシグナギなどの方へ赴きました。この地域はジョージアワインの産地として良く知られており、複数の醸造所を巡りながら昼から飲んだくれるという、罪深い一日となりました。他にもジョージア正教の聖地ともいえる修道院を巡るなど、なかなか濃密なバスツアーでした。

シグナギの城壁。

 市内観光含め一通りのことを終えてからは自転車のオーバーホールと後輪リム等部品類の交換を行ったりと、それはそれでマイペースに過ごしていたのですが、最後の最後で不幸にも風邪をひき、数日間をベッドの上で過ごしました。とはいえそうこうしている間に無事フロントフォークも届き、換装を終えて遂にアルメニアへ走り出す準備が整いました。実に十二日間もの滞在でした。
 トビリシは居心地の良いところです。私のルート上ではちょうど中間地点ぐらいに位置することもあり、良いリフレッシュになりました。この街では多くの人と知り合い、出かけました。退屈する暇がなかったのは幸せなことでしょう。

ツミンダ・サメバ教会を対岸から望む。近年建設された巨大な聖堂である。
メテヒ教会の足元、川のほとりの小さな風景。こういったものが好きな街だった。
同じくメテヒ教会から対岸を望む。
シオニ大聖堂の内部。ちょうど結婚式が行われていた。
夜のトビリシ。夜に出歩くのもまた心地よい街だった。


寒さと雨に震えたエレバンへの道

 全体的にのほほんとしたジョージアの旅とは対照的に、アルメニアの旅は私にとって厳しいものとなりました。険しい山岳、悪天候、そして低い気温が思い出されます。
 トビリシを出て初日は、60kmほど先のボルニシの町へ。短い距離でしたが、ほぼ二週間ぶりかつ病み上がりの私の身体には堪えました。その次の日は延々と川沿いに上り続けアルメニアへ。険しい谷間を登り切っていくと一面の平地に出るという面白い地形でしたが、まさにその高地の僅かな平地にある国こそがアルメニアなのです。まるでソ連時代からそのまま飛び出してきたようなアルメニア側の将校の制服に驚きつつも国境を通過すると、突然の大雨。高い標高ゆえの低気温も合わさり、非常につらかったのを覚えています。当初はステパナヴァンまで行くつもりでしたが、とてもそんなことができる状況ではないため、手前のタシルの町はずれの宿に泊まりました。こんなところに宿が?と思うような場所でしたがなんと満室で、私は屋内プールの横に並べた椅子の上で寝ました。外は豪雨でしたから、屋内というだけでも大変有難かったのです。食材も何も持たずに駆け込んできてしまった私ですが、宿に泊まっていた道路工事関係の方々に夕食に招いていただき、温かい食事にありつくことができました。ナゴルノ=カラバフの全面降伏が決まってまだ日の浅い頃だったこともあり、アルメニア人のかなり掘り下げた生の声を聴くことができました。

ボルニシに複数存在する、かつてのドイツからの入植者が建てたドイツ風家屋。
ボルニシからアルメニア国境まで登っていく途中、森林の中に突然現れた鉱山都市。
いかにもソヴィエト的な景観である。

 翌日は雨の上がった道を走り、前日には見えなかった大変美しい景色に息を吞みました。一方で、まだ十月の頭だというのに既に寒いこと、閉鎖的な地形と全体的に暗い雰囲気から、この国が置かれた状況へ思いを馳せながらの走行でした。更に、景色を楽しめたのも午前のうちだけで、昼食後に峠越えに挑むころにはまた雨、身体を震わせながら険しい山道を一漕ぎ、また一漕ぎと進んでいきました。頂上のトンネルは真っ暗で走行が許されず、ところどころ崩れた狭い歩道を自転車を押しながら進んでいきます。あまり楽しい体験ではありません。幸いなのは、峠の反対側は晴れていたことです。一気に山を降り、スピタクに到着しました。
 翌日は一気に首都エレバンへ。この日もまた山越えに雨とタフなコンディションでしたが、とにかく気合で乗り切り、日が沈むころに到着。郊外などは絵にかいたような旧ソ連的な街並みで、どんよりと重い空もあわせてとても明るい気分になれるような場所ではありませんでしたが、中心部は西洋的な街並みが比較的明るい場所でした。ここで、前述のサイクリスト達と合流し、以後タテヴまで一緒に行動しました。
 翌日は一日休憩と定め、タクシーに乗って近郊のガルニへ。ここにはローマ帝国時代の神殿があり、それを目的としての訪問でした。エレバンより南はどちらかというと乾燥した気候であるらしく、前日までの雨空が嘘のように晴れ渡った景色に、この先の道への期待を繋ぎました。

ガルニ神殿。完全にローマ時代のままというわけではないが、なかなかの保存状態である。
ただしかつて地震で崩壊したものを再建した。


紛争終結直後のアルメニア南部を走る

 ガルニを訪問した翌日は、遂に覚悟を決めてイラン国境へと漕ぎ始めました。この日は40kmほど南にある、ホール・ヴィラップ修道院の裏手の丘で野宿。思えばスペイン以来の純粋な野宿だったと思いますが、複数人なので気楽なものでした。夜には満点の星空とアララト山、そしてジャッカルの大合唱を楽しむことができました。野宿も案外悪くないと思えた、そんな晩でした。

トルコ側の街灯が多く強い灯りで、お世辞にも良い写真とは言えないが、
それでも高感度耐性にものを言わせて粘って撮った。
闇夜の中国境まで数百メートルのところまで迫り、ドキドキしながら撮った思い出の一枚。

 朝起きだしてすぐにホール・ヴィラップ修道院へ。修道院自体よりも、その背後に聳え立つアララト山が印象的です。アララト山はアルメニア人にとって特別な場所なのですが、現在はトルコ領内にあります。本来アルメニア人は現在のトルコ領内にまで広く居住していたのですが、第一次世界大戦中にオスマン帝国による大規模な虐殺と追放が発生。かつて東アルメニアと呼ばれた場所のみが現在のアルメニア国家として存続しているのです。アララト山はまさにその歴史を象徴するような場所であるといえます。ホール・ヴィラップ修道院は、国境を跨いだすぐ先のアララト山を望み、まるで見張りの番兵のように建っています。

左が小アララトで、右が大アララト。
自分にとってはアルメニアを象徴するような一枚。

 その後はアルメニア南部の急峻な山岳地帯に入っていったのですが、アルメニアに事実上併合されているアゼルバイジャンの飛び地を通過したり、ナゴルノ=カラバフに派遣されているロシア軍部隊の車列とすれ違ったりしながらの興味深い道でした。
 翌日もひたすら山道を走り続け、峠を越えてすぐの小さな町のガソリンスタンドで野宿。だいたい標高が2100m程度の場所でしたから、夜は大変に冷え込みました。
 次の日もまた強烈な山道が続きます。シシアンの市街地には入らず、新しく完成したばかりの道を通ってタテヴへ。タテヴ手前の峠は暴風と雨で大変に苦労しました。下り坂で、猛烈な正面からの突風で重装備の自転車ごと押し返されたことをよく覚えています。俄には信じがたい話かと思いますが、驚くべきことにこれが実際に起こったのです。そういった数々の困難を越えてタテヴの宿に着いた時には、大変な安堵感を覚えました。

アルメニア南部の山岳地帯は、どこまで行ってもこのような山道が続く。

 翌日、他の二人はカパンへ向けて走り出しましたが、既に疲れ果て、特に左膝に不安があった私はこの日を休養に充てました。タテヴ近辺の山の天気は変わりやすく、特にこの時は悪い方に振っていたようで、濃霧に雨と散々でした。アルメニア南部では随一の観光地ではあるのですが、村内の道は未舗装であるため、雨が降ると酷くぬかるみます。私はこの全体的な陰鬱さに少しやられてしまい、宿の部屋に閉じこもっている時間が殆どでした。タテヴまで来ると、直前に無条件降伏が決まったナゴルノ=カラバフはもう目の前。私が通った時には見かけませんでしたが、私の一週間ぐらい前に通った人は何度も路上で難民とすれ違ったようです。レストランの主人が言っていた、「戦争はアルメニア本土には波及していない、ここは危険ではないのだから多くの人に訪れてもらいたい」という言葉をここで紹介させていただきます。

タテヴの村に停まっていた、可愛らしいソ連はUAZ製のバン。
ジョージアとアルメニアではよく見かける。
濃霧のタテヴ村。静かなのは良いが、静かすぎた。

 さてタテヴですが、アルメニア国内でも一、二を争う立派な修道院があります。雨が止んだ時を見計らって訪問しましたが、確かに厳かな雰囲気と立派な建築、そして急峻な地形が織りなす絶景が印象的な場所でした。この修道院を目玉としてタテヴ村の観光開発が始まり、深い谷の対岸の村と大型ケーブルカーで繋ぐところまでやったのは良いのですが、やはり相次いだ戦争のせいか客の入りは芳しくないようです。

タテヴ修道院。恐ろしく深い谷の上に建っている。絶景である。

 タテヴを発った日は、それまでに比べれば小さな峠を越えてカパンの街へ。カパンはアルメニア南部シュニク地方最大の都市で、せいぜい小都市程度の規模ですがそれでもタテヴと比べれば別世界です。カパンは川沿いにある街なのですが、カパン空港のあたりでは川の対岸がもうアゼルバイジャンです。対岸の山の上に翻るアゼルバイジャン国旗を、私は見ました。
 翌日にカパンを出てからはイラン国境まで最後の峠を登り始めたのですが、この峠が一気に2000m近く登らせる凶悪な峠で、当時の私の状況では一日では行けないと判断。ちょうど中間地点にあるカジャラーンの町まで登り、そこで宿の有無を尋ねたのですが無いとのこと。野宿も考えましたが、夜間は氷点下まで冷え込む予報だったので断念。来た道をカパンまで降りました。翌日にカジャラーンまでタクシーで戻り、そこから登り始めるという暴挙じみた方法で最後の峠を走破。その後は一気にイラン国境近くのメグリの町まで降り、安いホテルを見つけて宿泊しました。

登り登ったアルメニア南部の山道もこれで終わり。イラン国境は目の前だ。

 翌朝、アルメニアに別れを告げつつ10km先のイラン国境を目指します。途中で風景写真を撮ったのですが、これを見ていた誰かが私の写真を撮って国境警備隊に通報、スパイを疑われた私は国境通過の際に軽く尋問を受けました。情勢が情勢だけに私も不用意だったとは思いますが、一方でこの神経質さというか、ソ連由来のメンタリティというのはアルメニアで度々目にした問題でした。一方でイラン側の入国審査は非常にあっさりしており、ものの数分で私は全く違う世界へと足を踏み入れたのでした。

出国前にイラン側の岩山をパシャリ。これが原因で国境にて軽い尋問に遭った。

 振り返ってみると、アルメニアの空気は北から南まで、決して心が明るくなるようなものではありませんでした。その原因には貧しさもあるでしょうし、寒さ、悪天候、そして何より生々しい敗戦の記憶というのもあるでしょう。しかしそれでも力強く生きる人々の姿に私は何度も驚かされました。特にアルメニア南部で強烈だったあの閉塞感、細長い地形を貫く事実上一本だけの道路、それも急峻な山岳地帯…。あの細くうねった道を行きかう、イランから来た無数の大型トレーラー達。ジョージアとの関係すら必ずしも密接ではないアルメニアにとって、唯一の頼みの綱は南の大国イラン。しかしアルメニアとイランを繋ぐのは僅かな国境線とたった一本の山道。そしてその国境線すら、アゼルバイジャン本土と飛び地のナヒチェヴァンを結ぶザンゲズール回廊として、アゼルバイジャン側は併合の意思を示しています。
しかし希望が全くないわけではありません。ソ連崩壊以来長く続いたナゴルノ=カラバフ紛争は、アルメニア側の完全敗北、アゼルバイジャン領内に存在したナゴルノ=カラバフ共和国の完全解体という形ではありますが、完全な終結を見ました。アルメニアのパシニャン首相は自らの政治生命、いやそれどころか文字通りの生命に代えてでもアゼルバイジャン及びトルコとの国交正常化を成し遂げるつもりのようです。アゼルバイジャンの側もパシニャン政権の対応を好意的に受け止めており、ザンゲズール回廊の占領も今のところは実行に移すつもりはないようです。これで遂に国境の画定と、それに伴う往来の再開が成されれば、敗北の事実こそ消えませんが、あの強烈な閉塞感が緩和され少しでもアルメニアが明るい未来に近づけるのではないかと、私は願っています。


森本 太郎 Taro Morimoto
1999年生まれ。現在は大学院を休学中。
中学生時代に自転車に目覚め、気が付けばユーラシア横断が始まっていた。
念願かなって、ペルシャ湾に浮かぶホルムズ島で遂に魚をキャッチ。
大型のカマスの仲間であった。
これで憑き物が落ちたとばかりにパキスタンへ突入したものの、あまりの厳しさに悪戦苦闘中。
しかしインドはもう遠くない!
X(Twitter):@taroimo_on_bike
Instagram:@tokyo__express
Youtube:@tokyo__express

文・写真 森本 太郎

撮影機材
Camera:
OM SYSTEM OM-1
Lens:
M.ZUIKO DIGITAL ED 12-40mm F2.8 PRO Ⅱ

#OMSYSTEM #OM1 #ZUIKO #森本太郎 #旅するomsystem

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