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タロイモの七転八起大陸自転車横断記 #08 憧れにして唯一無二、トルコの旅

灼熱のギリシャを走り抜け、7月25日にトルコへ入国。国境からイスタンブールまでは約230km、遂に迎えるヨーロッパの終わりに心躍らせながら、テオドシウスの城壁をくぐって辿り着いたボスポラス海峡。思いの外長引いたイスタンブール滞在の先も、果てしなく続くトルコの道。次々と移り変わる景色、尽きることのない歴史遺産、いつも舌を喜ばせてくれる美食の数々。比類なきトルコの旅は実に49日を数えました。


近づくヨーロッパの終わり

 7月25日朝、目前に迫ったトルコ国境にはやる気持ちを抑えつつ、ゆっくりとギリシャ最後の町を漕ぎだし約一時間、数日前より道路標識に現れていたトルコ国境が遂に目前に現れました。この国境を越えると遂にヨーロッパ最後の走行に入るのだと思うと、さすがに感じ入るものがありました。いつものように、何か忘れたものはないかと確認して、パスポートコントロールへと続く長大な車列に加わりました。折からの酷暑でしたから、馬鹿正直に並ぶとどうなるかわからなかったのですが、既に並んでいた車の皆さんが私を先に進ませてくれたので、案外待たずに済みました。
 ギリシャとトルコの関係は歴史的に悪く、なおかつキプロスをめぐる問題なども現在進行形で存在しているため、国境の雰囲気はどんなものだろうかと思っていたのですが、全く平穏で、「ウェルカム・トゥ・テュルキエ!」の言葉と共に温かくトルコに迎え入れられました。

遂にやってきたトルコ。ギリシャのパスポートコントロールを出てからトルコのパスポートコントロールを越える前の国境にかかる橋の上という、かなり微妙なところで警備の兵士に許可を得て撮影。もたついていたら早く行けと怒られた。

そして初日は国境から30km程度のケシャンの街へ。人口8000万人の成せるわざでしょう、一つ一つの街の規模の大きさ、道路の整備具合などはギリシャとは比べるべくもありません。殆ど高速道路のような国道をしばらく走り、無事にケシャンに到着しました。この街では、前日に発覚したかなりややこしい自転車の故障を直すために、腕がいいと評判のメカニックの元へ。自転車屋というより個人のガレージで作業を請け負っている形でしたが、あれよあれよという間に鮮やかな手際で元通りに。ケシャンからイスタンブールまでは三日。これでなんとかもってくれるだろうと一安心することができました。
 そしてトルコといえば美食の国。ギリシャも食事の美味しい国でしたが、トルコでは何といっても米をたくさん食べることができます。ピラフと呼ばれる薄く味付けのされたご飯におかずを合わせて食べるのがトルコ流ですが、初日の晩は久しぶりの米に大満足の夕食でした。ロカンタと呼ばれる食堂では家庭的な料理を指さしで選びながら食べることができるのですが、何を頼んでも美味しいのがこの国の素晴らしいところです。
 翌日もひたすら国道を走り、特筆することもないままテキルダーの街へ。この日の走行では最後の最後に標高200m程度の内陸部から海沿いのテキルダー市街に一気に降る一幕があったのですが、坂道を下るわずか数分の間に、それなりに涼しい気候から真夏の日本と同様の息苦しささえ覚えるようなまとわりつく熱気に変わったのには閉口しました。
 この日の夕食も再びロカンタへ。テキルダー名物のテキルダー風キョフテ(ハンバーグに近い肉料理。テキルダー風キョフテはバルカン半島のチェヴァプチと同様の料理)と馬骨スープを頂いたのですが、このスープが横浜家系ラーメンにかなり近い味で、感動を覚えました。さらに店長のお勧めに従ってお酢とニンニクを加えると、慣れ親しんだあのジャンキーな味そのままです。

テキルダー風キョフテと馬骨スープ。

翌日はテキルダーからイスタンブール手前の海辺の町まで走りましたが、強烈な風とマルマラ海沿岸の高温多湿な気候に苦しめられた一日でした。
 そして遂に迎えたヨーロッパ走行最終日。最後の最後でフロントディレイラー(変速機)の操作ワイヤーが切れかけるなどのトラブルはありましたが、なんといってもイスタンブールはもう目前。全く焦ることなく大都市の混雑した路上を進んでいきます。イスタンブール中心部から30km近く離れているにもかかわらず立ち並ぶ高層ビル群に度肝を抜かれ、東京以来の巨大都市に感嘆しながらゆっくりと進んでゆき、そして日が傾き始めたころに金閣湾にかかるガラタ橋に辿り着きました。ここをヨーロッパ走行の終着地点と定め、念入りな記念撮影を行った後に、すぐ近くの魚市場に向かい、念願のサバサンドを賞味することが叶いました。あまりの感動に少し泣きながら頬張ったことをよく覚えています。
 そのあとは近くのホステルへ向かい、万感の思いで就寝。この時はまだ、イスタンブールを十日程度で離れる心づもりでした。

イスタンブール、金角湾にかかるガラタ橋にて。ヨーロッパ、ここに尽きる。
大勢の人がガラタ橋から小鯵を釣っていた。
イスタンブール名物、サバサンド。しかしこれはサバサンド(Balik Ekmek)ではなくサバラップ(Balik Durum)。塩とレモンだけのサバサンドは正直味気ないが、サバラップは様々なスパイスとソースが使われており、断然美味しい。はっきり言ってこちらのサバは脂がのっていないので、日本のようにシンプルな調理では微妙。


気が付けば18日目、イスタンブールの重力

 そして始まったイスタンブール滞在。最初の数日は体力の回復に努めて食っちゃ寝の日々でしたが、遂に宿を這い出してイランビザを取得した日を境に、一日に一か所のペースで贅沢に時間を使いながら観光を始めました。イスタンブールについてここで私が語るのは烏滸がましくも感じますが、しかし何といってもあの都市にいると自分がまるで世界の中心にいるかのような感覚を覚えます。私は東京で生まれ育ち、この旅行ではパリにしばらく滞在し、以前は機会に恵まれてニューヨークやロンドンを訪問したこともあります。それらの都市は確かに巨大で洗練されていますが、一国の首都以上の感覚を覚えることはありませんでした。しかしイスタンブールには、街全体がユーラシア世界全体を凝縮した場所であるかのような感覚を覚えさせる何かがあります。都市のど真ん中を貫くボスポラス海峡が、開放的な空気を与えていることも理由の一つでしょう。結局私はその空気にあてられて、観光を終えた後もアジア側のカディキョイに引きこもって、気が付けば18日間イスタンブールに居座っていました。
 多くの言葉は必要ありません。ぜひ、生涯で一度はボスポラスの風に吹かれてください。

イスタンブールのシンボル、アヤソフィア。もともとは正教会の大聖堂であったものを、オスマン帝国によるコンスタンティノープル陥落の後はモスクへ。その後トルコ共和国建国にあたり、建国の父アタテュルクが世俗化政策の一環として博物館に改装したが、近年のエルドアン大統領によるイスラム化政策に伴ってまたモスクに復帰した。宗教施設化にあたって入場料無料になった点は助かるが...。
アヤソフィアの内部。正面の小ドーム(三つあるうちの真ん中)にかかっているカーテンの裏には、イエスのモザイク画がある。モスク化に伴って隠された。
スルタンアフメトモスク(通称ブルーモスク)。普通四本のミナレットが六本ある。逆光の中の撮影だったが、HDR撮影でなんとか見れる程度の写真に。
スレイマニエモスク。高台にあり景色もよいが、何より人が少なく静かでよい。スレイマン一世の墓がある。
トプカプ宮殿内のハレム。トプカプ宮殿の入場料は非常に高額で(五千円近い)、内容もそれに見合うかというとかなり微妙だが(イスラムの聖遺物の類は豊富だったので、ムスリムにとって金額は問題ではないだろう)、ハレムは相応の見応えがあった。
トプカプ宮殿からの景色。ボスポラス海峡は、都市の空気を明るく新鮮なものにしている。
地下宮殿と呼ばれる、後期ローマ帝国時代の地下貯水槽。入場料が高額だが(約三千円)、その価値があるような無いような...。
国立考古学博物館の目玉、アレクサンドロスの石棺。アレクサンドロス大王の石棺というわけではないのだが、彫刻と保存状態は圧巻というほかない。存在すら知らずにこの展示室を通ったが、それでもしばらくこの石棺の前に釘付けになった。
とても二千年以上前に掘られたとは思えない保存状態。
カタクチイワシのケバブ。焼く前に肉や魚をオリーブオイル等に漬け込むのがトルコ流で、これが柔らかさとジューシーさをもたらす。絶品。
個人的トルコNo.1グルメな、ミディェ・ドルマ。ムール貝に塩コショウだけで味付けしたであろうピラフを詰めて蒸したもの。レモンを絞っていただく。これを海鮮大好き日本人が発明できなかったのが悔しくなるような、そんな味。
イスタンブールでトルコ人の次に多い民族集団。この時遂に被写体認識機能を使った。当たり前のように瞳にピントが合い、感動。
夜のボスポラス海峡を船で渡る。両岸を渡る渡し舟は、格安の遊覧船である。


アナトリア高原を疾走、一路アンカラへ

 ヨーロッパとアジアの結節点という地理上の特性から、あらゆる自転車旅行者はイスタンブールに集まります。私も数人のサイクリスト達との交流や情報交換を楽しみつつ滞在していたのですが、イスタンブール滞在10日目あたりから、このままではだめだとはっきり感じるようになりました。しかし結局それからサドルに跨るまでにさらに8日を要したのです。
 イスタンブールを出てからはゲブゼ、イズミット、サカリヤ、デュズジェと退屈な道が続きましたが、デュズジェからゲレデへ走る日では遂に本格的な登りが待ち受けていました。この日の走行の最後半では、アナトリア高原に至ったことを印象付ける美しい景色を目にすることができました。
 ゲレデを発った日は、60kmほど先のキジルジャマムという町へ走りましたが、この町はその名前に「ハマム」の語を含んでおり、その名の通り温泉の町です。これまでドイツの温泉地などでは、「温泉」を名乗りながら適温の浴槽が無いという点に泣かされてきましたが、トルコではその心配は不要です。トルコの温泉には、たいてい40度強の温度の浴槽があります。日本を出てから五か月近くの間遠ざかっていた「入浴」という行為に感激し、格安で垢すりとマッサージを受けた後は、近くのガソリンスタンドに併設の礼拝室に一晩滞在させていただきました。この日は心身ともに充実した一日でした。
 翌日は80kmほど先のアンカラへ。途中で、前の晩に礼拝室で出会った地元の方に昼食に誘っていただいたので、お言葉に甘えてごちそうになりました。こういった人との出会いは自転車旅行の大きな魅力ですが、トルコではやはりその頻度が違います。人々の親切さ、優しさのおかげかとにかく49日間のトルコでの走行は最後まで飽きが来ませんでした。

観光客だらけでもカッパドキアには行くべし

 アンカラでは一日の休憩の間にパキスタンビザの申請と自転車の整備を済ませ、その後は翌日のカッパドキア行きのバスチケットを購入するためにバスターミナルへ。全て滞りなく済ませ、宿の近くのチョルバスィと呼ばれるスープ(チョルバ)に主眼を置いたレストランで夕食を食べました。チョルバスィはとにかく多種多様なチョルバを扱っていることが魅力ですが、そのほかにも基本的なケバブの類はすべて扱っていることが多いので、ロカンタと並ぶトルコでのお勧めです。一方のロカンタは、スープの種類が少ない代わりにケバブから煮込みまで多種多様なおかずを扱っているのが魅力です。
 翌日は自転車と不要な荷物をアンカラのホテルに置いて、高速バスでカッパドキアまで向かいました。バス自体はギリシャのものに比べると随分快適でしたが、なにせ冷房を効かせ過ぎているのが問題でした。アンカラから四時間ほどで無事カッパドキアへ到着しました。バスを降りるなり、いや、バスを降りる前から既に圧倒してくる奇岩群と、そこにくり抜かれた岩窟住居は圧巻というほかありません。
 しかし夜になりベッドにもぐりこむと、どうも体調がすぐれません。結局体調はそのままみるみる内に悪化していき、夜中にはもう歩き回るのも困難になっていました。バスの強烈な冷房が原因かと思いますが、岩窟住居を改装したホステルの居住環境の悪さも原因かと思います。カッパドキアといえば岩窟住居ということで観光客は私含め皆そういった場所に泊まりたがりますが、なんといっても空気が悪いです。体調がすぐれないときには避けるのが無難でしょう。結局、翌日は丸一日療養に費やすことになりました。
 カッパドキア滞在二日目になりやっと出歩けるようになったので、寝すぎて少しも眠くないのをいいことに夜明けと共に起きだして、名物の気球の大群を観るために岩山を登りました。気球への搭乗自体は、費用が高額であることと、そもそも高所恐怖症なので乗りたくもないという点から見送りました。私としては、地上から眺めているだけで十分幸せでした。その後はウチヒサルを観光し、ギョレメの宿に歩いて帰りがてらいくつかの散策路を歩こうとしたのですが、さすがに病み上がりでその体力はなく、途中の大きな宝石店の脇で座り込んでしまいました。

やっと風邪も治り、日の出とともに気球見物へ。
朝の冷たい空気をいっぱいに吸い込みながら、しばし無言で空を眺める。ただし周りには数百人の観光客がいる。とはいえ、自分もその一人であるので文句は言えない。
ウチヒサルの奇観。ギョレメからウチヒサルに至る道の途中から観るのが一番良い。

 さてそこには日本語の達者なトルコ人男性がいたのですが、彼は日本に長期居住していたこともあり、今でも一年の半分近くは日本で商売をしている日本通とのことでした。さて結局彼に宝石店を案内された私は、まんまと42ドルで人工のズルタナイトという宝石のネックレスを買わされて(?)しまったのです。私もその場でズルタナイトなる鉱石について調べ、天然のものと人工のものがあることについては理解していましたし、人工かどうか聞いた時の彼のはぐらかし方といい人工物であろうことは察しがついていたのですが、なんだかんだで上手いこと口車に乗せられてしまったというわけです。普段の私ならこんな値段のものを興味もないのに買うということはあり得ないので、あれはやはり一種の魔術です。どうせ買うなら少し高くても、贋物ではないトルコ石を買っておけばよかったなと今は後悔しています。
 その後は彼に頼んで手配してもらったバギーツアーに参加し、本来自力で散策する予定だった奇岩の数々を巡りました。このバギーツアーは当然公道を走行するのですが、免許の確認などというものは無く、結局同じ宿の運転経験のないアメリカ人女性が、何をどうしたのかバギーごとひっくり返ってその下敷きになるという痛ましい事故を起こしてしましました。彼女はその場で病院に送られ、後に宿に帰って来た時には顔にまで傷を負った状態で、まさに意気消沈という様子でした。とはいえバギーツアー自体は楽しく、カッパドキアが非常に広大なことを考えると、多少のリスクを許容できる人にはおすすめのアクティビティです。

バギーツアーに参加していたその一瞬。
カメラともども砂塵まみれになったが、それでも安心なのがOM-1。

 その日の晩に、やっとこさ翌日のアンカラ行きのバスを予約しに行ったのですが、翌日の深夜発の便以外は売り切れていたため、思いがけず時間ができました。そのため翌日は、諦めていたデリンクユ地下都市への訪問に充てました。この遺跡は、地下8階にいたるまで張り巡らされた広大な住居の遺跡で、多い時では万単位の人々が住んでいたことから「地下都市」との名を得ました。何か特別に広い空間があるというわけではないのですが、まるで蟻の巣のような地下通路を延々と探検していくのは間違いなく他ではできない体験でしょう。カッパドキアの中心からは30kmほど離れていますが、行く価値のある場所です。
 こうして予定より一日と半分延びたカッパドキアへの小旅行を終え、深夜のバスで早朝のアンカラに帰り着きました。早朝に着くため安宿を二泊で予約していたのですが、宿の親切なおじさんが一泊扱いにしてくれるなどと、ここでもトルコの人々の温かさに触れることができました。
 翌日は病み上がり最後の療養日ということで休みとし、宿の近くのアンカラ旧市街を探索するにとどめました。アナトリア文明博物館はヒッタイト等のアナトリア高原における古代文明を主眼に置いた展示をしており、ギリシャ系文明の展示が主なイスタンブールの国立考古学博物館とは好対照を成しています。

アナトリア文明博物館に住み着いている、トルコの影の支配者。

古代遺跡に温泉と盛りだくさんなサムスンへの道

 アンカラを出てからはまずはクルッカレへ。六日ぶりの走行でしたが、特に難しい道でもなくちょうどいい塩梅に走り終えて就寝。翌日はクルッカレから東へ進み、スングルルという町の近くのトラックドライバー向けと思われる国道沿いの宿に泊まりました。ウェブサイトでは破格の一泊300リラ(当時約1500円)とあったのですぐさま予約を入れましたが、宿に着いてみるとそれは去年の価格であり、ネット予約をする人がほとんどいないので更新を忘れていたとのこと。実際私の予約も通っていなかったので、この主張は事実だったと思います。そこで提示された金額は800リラでしたが、これは高すぎたので交渉したところ600リラまで一気に値下げ。ほかに行くあてもなかったのでこの値段で合意に至りました。宿の主人の子供たちが宿と食堂の手伝いをしていたのですが、彼らによれば私が初めての外国人の客とのことで、大変親切にしていただきました。
 翌日は、このルートをとった理由である、古代ヒッタイトの都であるハットゥシャ遺跡訪問の為に早起きをしました。その後は片道30kmの道をボアズカレ村までタクシーに自転車を積み込んで往復。そこそこの費用が掛かりましたが、二泊するよりも安く、一日節約できると考えれば得だろうという判断で前の晩に手配しておいたのです。自転車では一時間半以上はかかるであろう道を、タクシーは15分で走破。少し心に傷を負った気がしました。
 さて肝心の遺跡はというと…。古代史に人並み以上の関心がある私は行って後悔したということはないのですが、そうでない方にはあまりお勧めできません。まず立地が絶望的に悪いので、公共交通機関でのアクセスは著しく困難。自分で運転するか、タクシーか、バスツアーしかないでしょう。都市が丸ごと遺跡になっているため、面積が広大で内部の移動は車が基本になります。おまけに起伏が激しいので、自転車で回ったのは完全に間違いでした。私としては有名なライオンの門などを見ることができてそれなりに満足だったのですが、しかし何といっても同時代の古代エジプト建築と比べてしまうと大きく見劣りすると言わざるを得ません(エジプトに行ったことは無いのですが)。当時のヒッタイト王と古代エジプト新王国のラムセス二世の間には戦争やその後の平和条約の締結で交流があったのですが、たとえば神殿一つとってもハットゥシャ遺跡のものとエジプトのアブ・シンベル大神殿とを比べてしまうとここでは幸せになれません。ありのままのヒッタイトを受け入れることができる人にはお勧めの場所です。

古代ヒッタイトの都、ハットゥシャの遺跡。これまた強烈な逆光をHDRで何とかして撮った。こういった状況でも記録として残せるのはありがたい。

 宿までタクシーで戻ってきた後はチョルムまで走り、250リラという驚異の低価格のホテルに宿泊。しかしこのホテル、前日の宿よりもはるかに設備が良いにもかかわらずこの値段ですから、トルコの物価は本当によくわかりません。激しいインフレと通貨の下落の結果、去年の価格、今年の価格、そして来年の価格が市場に混在しており、そのうちどれを掴むことができるかというのは運の要素がかなり強いように思いました。同じ水準のレストランで、ちょっと離れた店と価格が倍違うということも一定の頻度で起きます。皆さんはぜひ気を付けてください。
 翌日はチョルムからアマスヤへの走行でしたが、路面状態が悪く強風にも見舞われたため快適なサイクリングとは到底言えない一日でした。とはいえ到着したアマスヤの町は素晴らしい場所で、断崖に掘られた古代ポントス王家の歴代王墓にオスマン時代の旧市街と、見どころの多い町でした。いたるところが観光地化されているトルコにあって、アマスヤには外国人観光客の姿が殆どなかったことも特筆すべき点でしょう。翌日は午前をアマスヤ観光に費やし、午後の短い時間で温泉の町ハブザまで走行し、公衆浴場で入浴して就寝しました。

アマスヤの景観。崖に掘られた穴こそが、古代ポントスの歴代王墓である。ローマ人が占領した際に装飾を全部引っぺがしたらしいので、今ではただの穴というほかない。

 サムスンへの走行最終日は、前の晩の温泉のおかげで素晴らしく回復した脚に物を言わせて一気に走破。それまでの比較的乾燥したアナトリア高原から、日本によく似た森林が広がる黒海沿岸に山を越えてすぐに、雨の後の森の、あの匂いを嗅いで大いに懐かしくなりました。サムスンでは街の中心に到着してから急いで宿泊場所を確保。町で一番安い場所に泊まりましたが、なかなか居心地が良かった覚えがあります。

サムスンへ到着。久しぶりに見た海。


募る望郷の念、黒海地方

 サムスンでは一日休養を取り、早朝から近場の堤防へ釣りに行きました。しかしながら堤防本体の周りに石を敷き詰めた構造上足元が浅く、さらにそもそも魚の気配も全くと言っていいほど感じなかったため(ボラは跳ねていましたが)、早々に退散となりました。リスボンからトルコまで意気揚々と釣り具を担いできたわけですが、竿を出したのはなんとたったの二回。いまこうして原稿を書いている間も、後ろから釣り具の泣き声が聞こえてくるようです。
 その日の夕方、自転車の整備の際に問題が発覚。ラック(荷台)をカーボン製のフロントフォークにねじ止めしていたのですが、7000kmに及ぶ走行の結果ねじ穴が振動でだめになってしまい、ラックの固定が甘くなっていたのです。こうなること自体は想定内であり、予備のねじ穴も左右一個ずつの一セットあるのですが、思っていたより早く限界が来たことと(予備も同じ7000kmでだめになるなら、東京までもたない)、状況確認の際にねじを締めこみすぎてしまいメキっという音とともに塗装が割れたことから(塗装だけでなく本体のカーボンシートも割れてしまった場合、使い続けるのは非常に危険)、このままではまずいと判断し、真剣にフロントフォークの買い替えを検討しなければならなくなってしまいました。加えてスングルルの段階で後輪のリムにひびが入り始めたことも確認していたため、この時点で頭の中は不安でいっぱいになり、寝付けない夜を過ごしたことをよく覚えています。
 とはいえ翌日は、確認の結果おそらくカーボン本体は大丈夫だろうという判断と、リムのひび割れはゆっくり進行するものであるという他のサイクリスト達の情報から、リラックスしてユンエの町まで走ることができました。着いたユンエは素晴らしい町で、穏やかな砂浜に釣り人でにぎわう桟橋、落ち着いた雰囲気の町並みとすべてが揃っていました。浜辺のシーフードレストランで夕食にカタクチイワシを揚げたものを食べましたが、こちらも素晴らしく、今のところトルコで一番気に入っている町です。
 翌日からは海岸沿いをひたすらジョージアのバトゥミまで走り続けたのですが、最後まで強い追い風と平坦な道に恵まれて、とても快適なサイクリングでした。また、トルコの黒海地方は地形、気候共に日本に良く似ており、そういった意味でも精神的に充実した道でした。特にユンエとオルドゥの間にある半島は、旧道を走って半島をぐるりと一周することで、まるで伊豆半島にでもいるかのような錯覚に浸ることができます。私はその錯覚を大いに愉しみましたが、一方でその錯覚から覚めた時の寂寞といったものは、なかなか表現しきれません。

手前のモスクのミナレットが無ければ、日本だと思ってしまうような海岸がつづく。

 いずれにせよ、その半島を走り切った先に辿り着いたオルドゥもまた素晴らしい街でした。広い市街地のすぐ横には山が聳え立ち、市街地から山頂の展望台を直結するロープウェイは長崎の街を思い出させます。夜になって独り、山頂へ降り立った時のあの何とも言えない満ち足りた感覚と、胸を焦がす望郷の念は忘れられません。尤も私は長崎出身というわけではないのですが、単に日本で一番好きな街が長崎なのです。

オルドゥの海岸。
オルドゥの山頂から観た夜景。

 翌日もまた似たような景色の中を走りながら、ギレスンの町へ。この町にも山があり、そこにへばりつく市街地はまるで熱海のようです。ここでも一人、頂上の要塞跡で物思いに耽りました。
 ギレスンを出た日は一気にトラブゾンまで。140km弱と長い道のりでしたが、強い追い風のおかげで特に苦労なく無事に到着しました。とはいえトラブゾンはサムスン同様の工業港といった趣で、静かなビーチであるとかそういったものは見当たりません。街自体も非常に大きいため、ユンエやオルドゥのように宿から歩いて海岸を散策するということもできず、私からすると押し寄せる観光客の影響で宿代が高いだけの街に思えました。
 トラブゾンの街自体には魅力を感じなかったものの、50kmほど離れた山の中にあるスメラ修道院には大いに心惹かれた私は、翌日朝からのバスツアーに参加しました。断崖絶壁の窪みに建てられたこの修道院は、モンテネグロで訪れたオストログ修道院を凄くしたような場所で、周囲の自然景観含めて絶対に訪問の価値があります。トラブゾンを訪れる際には忘れずに訪問してください。

トラブゾン近郊の、スメラ修道院。信じられない場所に建っている。どうも正教会はこういったところに修道院を建てたがるらしい。三脚ハイレゾショットとデジタルテレコンを組み合わせて撮影。結果としては、本来の倍の焦点距離を稼ぎつつ通常と同様の2000万画素程度を発揮できる。

 観光の翌日は、またしても一気に駒を進め、リゼとホパのちょうど真ん中にあるキャンプ場に宿泊しました。ここではドイツ人バイカーのヨナスと知り合い意気投合、その後も彼とはバトゥミ、トビリシで度々つるみ、今日もイランのザンジャーンで同じホテルに泊まっています。自転車とバイクなので進むスピードは当然違うのですが、その分彼は色々な場所をまわるため、結局時折落ち合うことがあるのです。彼とは今後もテヘランやパキスタン、インドで度々落ち合うでしょうから、長い付き合いになりそうです。
 翌日は、遂にやってきたトルコ走行最後の一日。走り出しのしばらくの間雨に降られてしまいましたが、それでもペダルを踏みしめ、途中の町でトルコ最後の食事を堪能し、そして夕方になって国境に辿り着きました。万感の思いで出国スタンプを受け、ここに、実に49日間に及ぶトルコの旅は終わりを迎えたのです。
 素晴らしい食事、尽きることのない見どころ、地域ごとに大きく異なる景観、そして素晴らしく親切な人々のおかげでトルコでの走行は毎日が楽しく、ついに最後まで飽きることのないまま出国に至りました。道路も大変走りやすく、自転車旅行にあれほど適した国も中々無いように思います。出国から一月以上が経ちましたが、それでもトルコを懐かしく感じ、今すぐにでも戻りたいような感覚があります。この旅行の中で、ある場所に戻りたいと思うことは殆どないのですから、やはりトルコは特別だったなと思わずにはいられないのです。


森本 太郎 Taro Morimoto

1999年生まれ。現在は大学院を休学中。中学生時代に自転車に目覚め、気が付けばユーラシア横断が始まっていた。早いのか遅いのか自分でもわからないが、なんだかんだでテヘランまでやってきた。中間地点も越えたことだろう。久しぶりのホンモノの海であるペルシャ湾で、秋真っ盛りの釣りシーズン。今度こそ結果を残そうと思案中。
X(Twitter):@taroimo_on_bike
Instagram:@tokyo__express
Youtube:@tokyo__express

文・写真 森本 太郎

撮影機材
Camera:
OM SYSTEM OM-1
Lens:
M.ZUIKO DIGITAL ED 12-40mm F2.8 PRO Ⅱ

#OMSYSTEM #OM1 #ZUIKO #森本太郎 #旅するomsystem

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