タロイモの七転八起大陸自転車横断記#07 どこへ行っても古代遺跡!ギリシャ編
バルカンの山々での長い戦いを終え、降り立ったのはテッサロニキ。しばし自転車のことを忘れてアテネへ行ってみた後は、エーゲ海を横目にひたすらイスタンブールを目指しました。
国境からテッサロニキへ、最後の山越え
北マケドニアから国境を越えてギリシャに入国したのは7月15日のこと。その日は特に何もないまま国境からそう遠くない小さな村に宿泊しました。さすがにギリシャに入ると物価が倍近くなったので面喰いましたが、これに関してはバルカン諸国が安すぎただけかもしれません。旅行者として物価の高低を判断する際には外食費と宿泊費の二つを見ますが、この二つは必ずしも連動するわけではありません。例えば日本は所得水準の割に外食費が異様に安く、一方でそれ以外はむしろ高額な部類です。バルカン諸国の外食費はそれほど安くありませんでしたが、一方で宿泊費が極端に安く、貧乏旅行でもかなり快適な場所に宿泊することができます。ギリシャは外食費が日本より若干高く、宿泊費は日本より安いといったところです。
翌日は一気にテッサロニキまで140kmの道のりを走破しました。序盤は小さな峠越えの連続する山間の道でしたが、なにせ正真正銘最後のバルカン半島での山越えです。やっとこれで解放されると思いながら、一歩一歩踏みしめて最後の峠の頂上に至りました。そこからは一気に山を降ってエデッサの街へ入り、ギリシャのファストフードであるギロピタをいただきましたが、これがとにかく美味しかったのです。それまでのバルカン諸国でもおかずは決まって肉でしたが、率直に言ってそれほど美味しくありませんでした。特にどの国でもソウルフードの座を占めていたチェバプチと呼ばれる小さなハンバーグは、ひき肉にしてしまった結果ジューシーさがまるで無く、いつ食べても60点の味です。炭火で焼けば化けるとは思うのですが、なぜかいつも必ず鉄板で焼かれて出てきます。
というように、世界には単に肉を焼くという最も原始的な料理の在り方であっても、よくできる国とそうでない国があるのです。私は今回の旅行でそれをいやというほど理解させられました。そして、ギリシャは良くできる側の国です。日本では当たり前だと思っていた、肉をジューシーに香ばしく焼き上げるということをできる国は案外限られます。
そしてエデッサからは炎天下の平地をひたすら突っ走るだけでしたが、途中で古代マケドニア王国の旧都ペラの遺跡があったため立ち寄りました。あまりにも暑かったので足早に回りましたが、保存状態は正直なところ北マケドニアのヘラクレア遺跡の方が良いです。とはいえ、かのアレクサンドロス大王が生まれた場所ですから、立ち寄った意義はあったかと思います。
その後も平地のまっすぐな道路を突っ走り、遂にテッサロニキの海岸に到着しました。この日は7月16日、スロヴェニアに入国したのが6月18日のことですので、約一か月かけてバルカン半島を縦断したことになります。途中どこまでも続く山々に心が折れそうになったこともありますが、遂に最後まで走り切った自分を褒めたいと思います。
テッサロニキでビザンツの遺跡を巡る
テッサロニキ到着の翌日はオフリドで水没したスマホを修理に出すとともに(後日修理不可能という診断結果と共に帰ってきました)、市街の散策を行いました。テッサロニキに残る歴史的建造物の大部分は古代ギリシャではなくビザンツ帝国のもので、ロトンダと呼ばれる重厚なドーム建築を筆頭に様々なものがあります。とはいえ街自体はそれほど大きくないので、一日あれば十分でしょう。
テッサロニキはギリシャの中央マケドニア地方の中心都市であり、同時にギリシャ第二の都市でもあります。私が訪れた旧都ペラ、その前の都のアイガイ、そしてテッサロニキ共にギリシャ領にあり、本来のマケドニアと呼ばれる地域はやはりギリシャ側が中心であったわけですから、確かに隣国にマケドニアを名乗られて腹が立つ気持ちはわかります。また、ギリシャには「ヴェルギナの太陽」と呼ばれるシンボルがあるのですが、これは古代マケドニア王国に由来するものです。このシンボルはテッサロニキの街中でも時折目にするのですが、ユーゴスラビアからの独立直後の北マケドニアは一時期このシンボルを国旗に採用していたことがあります(ギリシャからの猛抗議と経済制裁によって変更されました)。これは部外者の私からしても一線を越えているように思うのですが、北マケドニアでは未だにこの旧国旗を掲げている場合があります。北マケドニアナショナリズムの象徴なのでしょうが、明らかに他国のシンボルであるものを持ってきて自国のシンボルにしてしまう(そしてそれに愛着を持つことができる)感性が私には理解しがたいものでした。
さてこういう経緯があるものですから、ギリシャ人一般の北マケドニアに対する心証は絶望的に悪いです。そもそも北「マケドニア」と呼ばないので、別の呼び方を使わないと会話では伝わらないことがありますし、なんなら私は北マケドニア通貨の両替を拒否されました。店員が言うには、中央銀行からの指示で北マケドニアの通貨は買い取り拒否せざるを得ないとのことです。
灼熱のアテネ
テッサロニキ観光の翌日は、途中ペルシア戦争のさなかスパルタのレオニダスが戦ったテルモピュライの地を通りつつ、ギリシャ観光の本命たるアテネに向かいました。バスで六時間に及ぶ道のりで、冷房の効きが悪ければトイレもなく、インターネット接続も非常に不安定だったので、鉄道をお勧めします。実際に私も帰りは鉄道にしましたが、そちらのほうが随分快適でした。
翌日は早朝に起きだして、アクロポリス開園一番乗りを目指しました。というのも、折からの酷暑で昼の間は閉鎖されてしまうため、ただでさえ多い観光客が短い開園時間に集中し、早朝にでも行かないと身動きが取れなくなるのです。なんとかそれなりに早い時間に着いたはずですが、それでも既に長い入場列が出来上がっていました。入場ゲートを抜けてアクロポリスに上がっていくと、さっそく壮大な門が出迎えてくれます。これまでも様々な建築を様々な国で見てきましたが、やはり古代文明の建築は別格です。覚える興奮が違います。そしてその門を抜ければ、目の前にパルテノン神殿が現れます。
残念ながらパルテノン神殿は修復工事中で、入り口側には足場がかけられています。また、17世紀のヴェネツィア艦隊による砲撃によって構造が大きく破壊されたことと、19世紀にイギリスのエルギン伯が装飾として取り付けられていた彫刻類をはぎ取って大英博物館に移送したことから、今ではかなり寂しい見た目になってしまっています。見る人が見れば柱の微妙な絞りこみなどに感動するらしいですが、私はそこまで詳しくないので、隣接するアテナイのアゴラにある非常に保存状態の良いヘファイストス神殿が気に入りました。こうしてアクロポリスとアゴラの観光を終えた後はいったん宿へ戻り、最も暑い時間帯を昼寝に費やしてから、夕方に国立考古学博物館へ向かいました。
国立考古学博物館の展示内容は圧巻のひとことで、古代ギリシャ文明だけでなくそれ以前の古代ミケーネ文明などの展示も非常に充実しており、訪問の甲斐がありました。特に黄金のデスマスクはかつて教科書で見たものの実物ですから、感動を覚えました。夜になり宿に戻って、冷房のない部屋でウンウン唸りながらどうにか就寝、翌日の列車でテッサロニキに帰りました。
一路イスタンブールへ
日テッサロニキを発ってからはひたすら一路東へ、イスタンブールを目指しました。酷暑の中、再び熱中症になりかけた時もありましたが、ひたすら平らな大地を四日間走り、トルコ国境に至りました。
文・写真 森本 太郎