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タロイモの七転八起大陸自転車横断記 #10 忘れがたきイランの旅

 コーカサスの山々を走り抜け、キリスト教圏にも別れを告げ、10月14日遂にイランへ。種々の不便さに翻弄されながらも、それを帳消しにしてしまうほどの魅力にあふれたペルシア世界。世界の他のどことも違う独特の文化にどっぷり浸かり、気が付けば数えること79日。まだまだ人気とは言えない旅行先ながらも、訪れた誰もが魅了されて帰ってくるペルシアを、ゆっくりと訪ね歩きました。



全く違う世界の始まりに心踊らされた、国境からタブリーズまでの道

 10月14日昼、案外あっさりおわったイランの入国手続きを終えて、私は国境を流れるアラス側沿いの道を走り始めました。新たな世界に足を踏み入れた興奮もありましたが、それ以上にイラン特有の不便さへの不安が勝りました。長引く経済制裁によってイランではクレジットカードの類も、国際送金サービスも使えないため、イランで必要となる凡そ全ての現金を事前に用意しておく必要があったのですが、果たしてそれが足りるか不安だったのです。加えて、イスラム共和国を標榜するイランの法律は比較的厳しく、その点についても不安がありました。

 アラス川の渓谷が織りなす奇観を眺めながら走ること2時間、昼食を食べに入った店で最初の試練が訪れます。物の値段がわからないのです。今でも覚えていますが、あの時の昼食はゼレシュク・ポロウ、炊き上げた長粒米に煮込むか揚げ焼するかした鳥の片足を乗せて、そこにトマトベースのソースと干したザクロをかける料理です。イラン旅行中の私の好物で、頻繁に食べていました。

この時の値段は180万リアル。イランでは長年続くインフレと通貨下落の合わせ技で、金額の桁が非常に多く、値札を読むのがいちいち大変です。加えて、現地ではもはやリアルという単位は使わず、0を一つ減らしたトマンという単位で会話します。100万リアルは10万トマンというわけです。さらに厄介なことに、このトマンは時によっては1万リアルを1トマンとする場合もあります。さて店員は180万と答えてくれたわけですが、まずはそれがリアルなのかトマンなのか知る必要があります。この場合は最初からリアルで伝えてくれましたが、外国人への配慮でしょう。こうして180万「リアル」であることが分かったはいいものの、では実際それが日本円で大体いくらなのかというと皆目見当がつきません。Googleなどで調べて出てくるレートは実勢レートからかけ離れており、大体十倍の値段になってしまいます。ですからまずは実勢レートを知る必要があるのですが、これが大変な作業でした。この場では実勢レートを突き止めることを諦め、まずは食事をありがたく頂き、その日の晩にジョルファという町の宿に着いてからじっくりと調べました。結局のところ、1ドルが大体50万リアル程度ですので、この日の昼食は540円程度だったことになります。イランでは高くもないですが、安くもないといったところです。しかしとりあえずはイラン最大の謎が解け、一安心でした。国境でアルメニアの通貨を両替しましたが、このアゼルバイジャン領ナヒチェヴァンとの国境の町ジョルファで追加の100ドルの両替をしました。100ドルだと大体5000万リアルですが、最高額面の200万リアル紙幣は殆ど見かけず、大体の両替商は100万リアル紙幣か酷い時は10万リアル紙幣を渡してくるので、一度に両替できる金額は100ドルが限界です。それ以上は物理的に持ち運べません。しかし物価の安いイランでは、100ドルでしばらくは生きていけます。

翌日はジョルファからマランドへ。途中昼食にクービーデ・ケバブ(羊のひき肉のケバブ)とジュージェ・ケバブ(レモンなどに漬け込んだ鶏むね肉のケバブ)を食べました。イランでは主に米が出てくるのが大変有難かったです。道の方はというと、多少の登り坂はありましたが、アルメニアに比べればどうということはなく、久々の開放的な風景を楽しみながら走ることができました。

その次の日はマランドからタブリーズへ。この日もまた前日と似たような道を走って終わりのはずでしたが、タブリーズの手前、最後の最後でなんと集中豪雨に捕まりました。アルメニア最後の峠を越えてからは植生の薄い乾燥地帯に入ったため、まさかあのような豪雨を想定していなかったのですが、人生で一番美しい二重の虹を見れたので、最後には笑ってタブリーズの街に到着することができました。

タブリーズはイランでも屈指の大都市で、地下鉄まで走っています。一方で地震の多い土地柄か歴史遺産にはあまり恵まれておらず、世界遺産に登録された大バザールを見物すればやるべきことは大体終わりです。とはいえアルメニア南部の走行で疲れ果てた身体を癒す必要があったので、タブリーズには丸三日滞在しました。長ズボンを買いに入った古着屋の店主がかつて水戸で働いていた人で、日本の縁で割引をしてもらうなどありましたが、間に一日宿の他の客たちと連れ立ってカンドヴァン村というトルコのカッパドキアを小さくしたような場所を訪れた以外は特に出歩くこともせず休んでいた日々でした。

カンドヴァン村。
見てのとおりカッパドキアに瓜二つだが、
こちらではまだ人々が岩山を掘りこんだ住居の中で暮らしている。


徐々に姿を現すペルシア世界、タブリーズからテヘランへ

 タブリーズを出た日は60kmほど先のボスタナバードという町へ。着いたはいいのですが唯一の宿に人がおらず、さぁ野宿かと考えていたところ、近くの売店でお茶をしていた若い男性に、それならばうちに泊まって行けとの誘いを受けました。イランはなんといっても素晴らしいホスピタリティと親切さで有名で、私は早速その洗礼を受けたことになります。とはいえ、この時の経験はそれほど楽しいものではありませんでした。私は連日のドミトリー泊で睡眠不足になっており、翌日の走行距離も長かったため一人でゆっくりと休みたかったのですが、彼についていくとなればそうはいかないことは明白でした。ですから二回ほどは固辞しましたが、それでも是非もてなしを受けていってくれと熱弁され、そして何よりこの後結婚式に一緒に行こうという誘いにも魅力を感じ、受け入れることとしました。その後はすぐ彼の家に移動し、シャワーを浴びてまともな服装に着替え、車で結婚式場へと向かいました。

 しかしこの結婚式が大変で、一度出席した以上は閉会まで帰ることまかりならず、数百人の中で唯一の外国人として言葉も通じぬ中、ひたすら踊る人々を眺めているだけでした。とはいえ面白い発見もあり、イラン全土でそうなのかはわかりませんが、ここでは結婚式が男女別になっていました。また、飲酒がご法度とされるイランでも実際のところ飲酒は公然の秘密となっており、この結婚式場でも入り口横に簡易的にかけたカーテンの裏で、若者たちが密造酒を呑んでいました。仕切りはカーテン一枚ですから、当然その裏側で何が行われているかは皆知っているわけですが、そこに目隠しをするだけで十分という程度の扱いなのでしょう。尤も、イランの密造酒、特に蒸留酒の類はその品質の悪さで悪名高く、私も以後二日間妙な腹調子に悩まされました。

 4時間ほど居たでしょうか、やっと結婚式も終わりこれで帰って寝れるぞと喜んだのも束の間、彼は友人たちへ私を紹介することに決めたようで、何件かの店を回りました。時刻も12時をまわり完全に音を上げた私は、彼に何度目かの「帰って寝かせてほしい」を伝え、そして遂に岐路に着きました。しかし話はそれで終わらず、家に着いたら着いたで彼は果物やお菓子を準備しはじめ、談話を始めたい様子。これには完全に参ってしまい、頼むから寝かせてくれと懇願してやっと床に就くことができました。しかしそれでも安寧は訪れず、すぐに残りの家族が帰宅し、自己紹介と挨拶を一からやることに。流石に奥さんとお父さんの方は状況を察したようで私をすぐに寝かせてくれました。こうして遂に寝床に入ったのが深夜の二時。一時間後にトイレへ行きたくなり目が覚めた時は、少しでも音をたてたらまた何かが始まってしまうと考え、抜き足差し足でトイレへ往復。それでも彼には気づかれてしまったようで、一体どうした、必要なものがあれば何でも言ってくれとまたいつものやり取りが始まりました。この時にはもうほとんど泣きそうになっていたのを覚えています。翌朝は早くこの家から抜け出さねばと思ったこともあり早起きしましたから、睡眠時間は結局5時間程度になってしまいました。

 以前から私はイランのホスピタリティというものを聞き及び、それに期待していたのは事実ですが、実際それの恐らく最も極端な例を最初に経験したことは以後の私の行動に影響を与えました。良く言えば大盤振る舞い、悪く言えば相手の都合を考えない善意の押し売りというのは正直なところイランやパキスタンで良く遭遇するもので、なんといっても客人には客人としての振る舞いが求められますからそうそう断るわけにもいきません。ですから以後の私は、よっぽど信用できる相手でもない限りそもそも客人にならないようになってしまったのです。この点は大体どの自転車乗りもイランで直面する問題のようで、みんなが口をそろえて「疲れる」と言います。

 さて朝早く起きだした次の日、足早に用意を終え朝食をごちそうになった後は、家族に別れを告げて100kmほど先のミーアーネという町へ。途中タブリーズの宿で一緒だった自転車乗り達と遭遇し、町まで一緒に走りました。この日は降り基調で大変楽だったのは良かったのですが、この次の日が登り基調の140kmということもあって、今日こそは断固一人で宿に泊まると決めていました。彼らとは町の入り口の野宿が出来そうな場所で別れ、私はその後無事に部屋を見つけ、食事を済ませた後はさっさと床に就きました。

 翌日はおそらくこれまでの旅行の中で一番早く起き、前の晩に用意しておいた朝食をかきこんですぐに走行開始。140km先かつ900m登った先のザンジャーンを目指します。途中通りがかりの車にリンゴを貰ったり、昼食を食べに寄った村の食堂で人々に奢って貰ったりと、この日はまさにちょうど良い素晴らしいイランのホスピタリティに触れた一日でした。肉体的には大変でしたが、無事快適な宿も見つけ、テヘランまでの中間地点ということで一日休憩をはさみました。

ミーアーネとザンジャーンの間の景色。イランの景色は雄大で楽しい。

 翌日はザンジャーンを一日うろついていただけですが、トビリシ以来のヨナスとの再会があり、彼とバザールの中のレストランに向かいました。このレストランが素晴らしい場所で、料理の質もさることながら、古いバザールの一角を美しく設えた店内はまさに思い描いていた通りのペルシア世界でした。更に価格も手ごろで、二人で色々なものを注文しても一人当たり600円程度で収まったのには驚きました。

ザンジャーンのバザール。

 翌日はザンジャーンからアブハルという小さな町へ。途中で世界遺産のソルターニーイェに寄りました。ここは14世紀初頭にモンゴル系のイルハン朝によって建設された都市で、目玉は巨大なドームが目印のオルジェイトゥ廟です。このオルジェイトゥという人物が、ソルターニーイェの建設を開始したハーンであるというわけです。周囲は高い建物のない平原ですから、この霊廟はそれこそ10km先からでも目視できます。実際に到着してみるとその巨大さに圧倒されます。一方で外装の殆どと内装のかなりの部分は剥がれ落ちています。しかし一方でその姿ゆえに歴史をそこに感じることができました。ソルターニーイェを出てからは強烈な追い風で、苦労のないまますぐにアブハルへ到着しました。

ソルターニーイェのオルジェイトゥ廟。

 翌日はアブハルからガズヴィーンへ。この日も強い追い風に恵まれ、ただ流しているだけでガズヴィーンへ。うまいことホステルを見つけ、荷物を置いた後は周囲の散策に出かけました。ガズヴィーンは実は思い出に残っている場所の一つで、なんといってもバザールとかつてのキャラバンサライの複合体が素晴らしいのです。キャラバンサライは美しく修復され、夜には絶妙な加減の照明のおかげで非常にロマンティックな雰囲気になります。バザールはというと、宝石や皮革製品など高額なものを扱う一角はキャラバンサライと同様の改修が施され、パリもかくやというような洗練された雰囲気になっています。一方で日用品を扱う区画は活気あふれるまさに市場といった具合で、それもまた良いのです。少し裏手の方には、もうほとんど遺跡のような様子の一角に家具職人の店が立ち並び、木工家具を黙々と作っています。こうした様々な姿のイランを一か所で楽しむことができるのがガズヴィーンです。間違いなくイランの中で一番好きなバザールです。

ガズヴィーンのモスク。
キャラバンサライ内の工芸品店。
美しく修復されたバザールの一角。
美しく修復されたバザールの一角。

 次の日も午前中はガズヴィーン散策に費やしたため、100km先のキャラジに着いた時にはもう夜でした。安い宿から順番に回りましたが、どこも満室で結局唯一空き部屋があったのは街で一番高い宿。それでも3000円ぐらいではあったのですが、大金のように感じました。キャラジは東京にとっての横浜のような場所で、テヘランから都市鉄道が伸びています。翌日はテヘランまでの40kmをさっと走り、ランドマークであるアーザーディー・タワーの前で記念撮影をした後は、家族ぐるみの付き合いがある方のお宅にしばらくお世話になることとしました。

テヘランに到着。街のシンボル、アーザーディー・タワー。

 一方テヘランで一つ興味深かったのは、その比較的開放的な空気です。大学などが集中しているだけあってやはり若者が多く、洒落たカフェなどもよく見かけます。イランでは都市ごとに宗教的な都市かそうでない都市かはっきり分かれていることが多く、自由な場所の筆頭がテヘラン、次がシーラーズと言われています。対照的に宗教的に厳格とされている場所は、まずは宗教都市ゴム、そして有名なイスファハーンなどです。2022年の9月に発生し後に全国的な反政府デモに発展した、若い女性が警察に逮捕されたのちに不審死した事件は、女性がヒジャブと呼ばれる頭髪を隠すための布を着用していなかったことが発端ですが、テヘランでは若い女性のうちかなりの人がヒジャブを付けずに堂々と出歩いています。一度テヘラン地下鉄で観察したときは、女性客のうち三割強、特に若い女子学生などは殆どの人が一切ヒジャブを付けず、次の四割強の人は前髪などを丸出しの申し訳程度のかぶり方で、残りの人々は、概ね中高年女性ですが、政府が推奨する通りのかぶり方をしていました。申し訳程度のかぶり方をしている女性たちは、ヒジャブの着用が法律上の義務でなければ間違いなく着用しない人たちでしょうから、結局のところテヘランの女性たちの七割強はヒジャブの着用強制を快く思っていないということになります。特にこの時は、まさにテヘラン地下鉄で16歳の少女が宗教警察によってヒジャブ非着用の咎で殴打された後に死亡した事件の数日後でしたから、ヒジャブを一切着用していなかった若い女性たちの勇敢さには全く敬服せざるをえません。これは後々知っていくことですが、一昨年の抗議活動の際にも最前線に立って戦ったのは若い女性が多かったようです。彼女たちは本当に勇敢です。一方で、後に利用したイスファハーン地下鉄にはヒジャブ未着用の女性の利用を拒否する旨の掲示が至る所にあり、実際に全ての女性がヒジャブを着用していました。また、私が唯一宗教警察を目撃したのもイスファハーンでした。
 テヘラン滞在中にはヨナスと再会したほか、日本人サイクリストのリョウさんと会いました。ヨナスとはこれが最後になり、以後は二人向かう方向も進むペースも別々に旅を続けています。

アルボルズ山脈を越え、緑あふれるカスピ海沿岸へ

 テヘランで数日の休養を取ったのちは、マザンダラーン州のカスピ海沿岸にある、テヘランでお世話になっている家族の親戚のお宅を訪問しました。テヘランの家族の倅と私は一歳差の同世代で、彼らが日本に住んでいた頃の二人一緒に写った写真などはまだ持っています。今回の小旅行は、彼と二人で向かいました。
テヘランの背後に聳えるアルボルズ山脈を越えると、先ほどまでの乾燥した大地が嘘のように木々が鬱蒼と生い茂っています。カスピ海の湿気が山脈に押し留められるのです。カスピ海はというと、湖でありながら潮の香りを確かに湛えた、まさに「海」でした。念願のカスピ海見物に満足した私たちは、滞在先の奥さんが作ってくださったカスピ海産の魚料理に舌鼓を打ち、今度はイラン最高峰ダマーヴァンド山の麓にある、テヘランの家族の別荘へ向かいました。

マザンダラーン州、モーテル・クゥの砂浜。
打ち寄せる波に砂浜に散らばった貝殻、そして潮の香りとまさに海そのものだった。
この日の漁は不漁だったようだ。

 ダマーヴァンド山は、日本の富士山によく似た美しい山容の成層火山ですが、標高ははるかに高い5,610mを誇ります。その麓の別荘で、私たちは秋の訪れを楽しみつつ、奥さんが仕込んで倅が焼き上げるイラン式のバーベキューに興じました。

鶏肉を焼き上げた、ジュージェ・ケバブ。
イランで最も頻繁に食べた料理だろう。この家族のものが一番おいしかった。

 翌日になり、家族そろってテヘランへ戻ったのですが、どうも私はだいぶ疲れが溜まっていたようでその後一日を丸々寝て過ごしました。


イラン西部へ古代文明を訪ねる

 その後数日経ち、再び活力を取り戻した私は、今度は一人でバスに乗り西部のハマダーンを目指しました。ハマダーンはかつてエクバターナと呼ばれた古都で、アケメネス朝期以前のメディア王国時代に遡る遺跡が存在します。その他にも、著名な学者イブン・シーナーの墓所が存在するなど歴史的に重要な都市です。とはいえエクバターナ遺跡自体は完全な廃墟と化しており、考古学者でもない私にとってはやや徒労の感がありました。

エクバターナの都市遺跡。
エクバターナ遺跡の博物館に展示されていたアケメネス朝期の出土品で、ライオンをかたどっている。以前ギリシャのアンフィポリス近郊で見た明らかにギリシア様式ではないライオンの立像にそっくりで衝撃を受けた。アンフィポリスの獅子立像はアレクサンドロス大王の東征に付き従った将軍のうち一人の墓所に建っていたもので、それから数か月経ちこの小さな出土品を見た時に私の中で全てが繋がって鳥肌が立った!

 翌日はタクシーに乗って、ケルマーンシャーの手前にある有名なベヒストゥン 碑文へ。この碑文はアケメネス朝の著名な大王、ダレイオス一世によって彫られたもので、彼が諸王の王(シャーハーン・シャー)として王権を授けられた経緯を描いたもので、今回の小旅行の主な目的でした。しかしなんとこの碑文は直近の数年間保存修復作業のため覆いが被せられており、悲しいことに直接見ることが叶いませんでした。これにはかなり落ち込みましたが、仕方がないので同じ敷地内に点在する後年のギリシア系のセレウコス朝期、ギリシア文化の影響を強く受けたペルシア系のアルサケス朝期のレリーフを見物して、ケルマーンシャーの街へ移動しました。

覆わてしまったベヒストゥン 碑文。

 翌朝になり、今度はまた長距離バスに乗ってテヘランへの帰路に着きました。テヘラン市内での渋滞もあり帰るまでに10時間以上かかってしまいましたし、本命のベスヒトゥン碑文も見れず仕舞いでしたが、そうはいっても西部への小旅行には満足することができました。その後もテヘランには数日滞在し、インドビザの申請をするなどして過ごしましたが、11月10日、遂に長い休養を終え再び走り出したのです。


遂に始まったペルシア世界の核心、テヘランからカーシャーン、そしてイスファハーンへ

 昼前にテヘランの家族に別れを告げて、長らく滞在したテヘランを後にしました。テヘランは交通渋滞で有名ですが、この日は特に苦労することなく街を抜けることができました。そうしてしばらく走り、ハサナバードという町に到着。野宿しようと思い場所を探していたところ、隣接する工業団地で働いている男性が工場の宿直室へ招いてくれました。トイレ、シャワー、暖房完備の部屋で晩御飯と朝食までごちそうになり、本当にありがたい限りでした。
 翌日になり彼に挨拶をしてから、いよいよ本格的に砂漠の中へ漕ぎ出していきます。砂漠には本当に何もなく、ひたすら道路を走り、時折現れる食堂で補給を済ませながら、次の街ゴムへ進んでいきます。ただし交通量は多いので、行倒れる心配はありません。また、時折かつてのキャラバンサライが道沿いに現れるので、どこまでも広がる砂漠の風景と合わせて自分がイランを走っていることを強く意識させる道でした。また、昼食では食堂で一緒になったイラン人の家族が私の分の支払いをしてくれて、夕食と宿泊場所に関しては知人の知人が世話をしてくれるなど、この日もまたイラン人の圧倒的な親切さが身に染みる一日でした。
 翌朝になり、まずは宗教都市ゴムを宗教都市たらしめる聖者廟へ向かいました。7代イマームの娘であり、8代イマームの妹であるファーティマ・マスメを祀ったこの廟はゴムの中心であり、イラン全土からシーア派の信徒が巡礼に訪れる聖地であります。生きている信仰の現場としての側面が強いこの場所には私の外に非ムスリムの外国人はいなかったように見え、また、イラン外務省が派遣している英語ガイドが無償で案内をしてくれました。どこで起きたのかまでは知りませんが、以前一眼カメラを爆弾に改造して爆発させたテロ事件が発生したことから、一般に聖者廟の類では入り口で厳格な身体検査があり、そのうえでカメラは持ち込みを拒否されます。しかしこの際は、カメラとしてちゃんと動作していることを確認されたうえで持ち込みを許可されました。私がお世話になっていた方がウラマーであったことも影響したと思います。

ファーティマ・マスメ廟。
要所に張られた金箔は、信者からの寄進によって賄われた。
精巧なタイル装飾はペルシア建築の真骨頂。
イーワーンのアーチ部分に設けられた鍾乳石様の装飾も特徴的である。

 午前中の観光を終え、次の街カーシャーンへ走り始めましたが、なぜかこの日はどうも調子が出ず、大いに苦しみながらの走行となりました。日も完全に暮れ切ってからカーシャーンの手前10kmほどのピザ屋で夕食を済ませたのですが、この時にチューブが空気漏れを起こしていることを発見。これがこの日の不調の原因だったわけです。急いで修理を済ませた後は旧市街の真ん中にある宿へと急ぎました。
 着いた宿は伝統的な邸宅をホステルに改装した場所で、落ち着いた雰囲気も相まって非常に気に入りました。実は私は小学生の頃にイランを訪問したことがあり、カーシャーンはその中でも特に思い出に残っている場所です。翌日、翌々日を観光に費やしつつかつて訪れた場所を巡り、かつて撮った写真と同じ場所、同じポーズで写真を撮るのはなかなか愉快でした。カーシャーンはまさに典型的なペルシアの姿を残しつつも観光客がそれほど多くない場所です。その分土産物屋のようなものは少ないですが、大バザールでは生のイランに触れることができます。心からお勧めできる場所の一つです。

旧市街の真ん中に聳え立つモスク。
中心に見える地階部分は現在、マドラサの寄宿舎として使われている。静かな空間が心地よい。
迷路のような土壁の路地が入り組む旧市街から前掲のモスクを眺める。美しい。
世界遺産にも登録されているフィン庭園。
ペルシア式庭園の傑作である。
背後の山から湧き出す澄んだ水が庭園に引かれ、魚たちが泳いでいる。
歴史上有名な宰相アミール・キャビールはこの庭園内の浴場で暗殺された。
旧市街に複数存在する伝統的な邸宅のうち、
Borujerdi家の邸宅の象徴的なドームを内部から見上げる。
同じドームを今度は外から。

 カーシャーンを出た日は、幹線道路沿いにある核開発施設を迂回するために細い道を選び少し遠回りをしてナタンツという町を目指しました。いつもと同じように砂漠を走った後は、山の上にあるナタンツへと緩やかな坂道を登っていきます。そういった道沿いにある村々に、心惹かれる古い建築がいちいちあるのがイランの素晴らしいところなのですが、日没迫る中それらに立ち寄ることは叶わず、迫りくる夕闇に焦りつつも何とかこの日もまた古い建物を改装した宿に辿り着きました。

鉄塔たちがどこまでも続いている。

 翌日は遂にイラン観光の本命、イスファハーンへ。この日は距離も長く、さらに序盤はろくに車も通らないような田舎道を延々登りつづけるばかりで大変疲れたのですが、この田舎道の風景が本当に素晴らしかったのは救いでした。前日に立ち寄れなかった、まるで中世からそのまま抜け出してきたような村々や放棄されたキャラバンサライをいくつも通り抜けながら、標高を上げていくと今度はまるで火星のような世界へ。イランを走ることの魅力が詰まった素晴らしい道でした。
 この日も結局日が暮れ、途中で夕食を食べてから最後の力を振り絞ってイスファハーンの中心、イマーム広場へ。長年にわたり再訪を待ちわびていたイスファハーンへの再来成り、まさに感動の頂点にいました。夜の広場はため息を何度も漏らすほど美しく、叶うならばあのままあそこにいつまでも留まっていたかったのですが、疲労は如何ともしがたく、すぐ近くのホステルへ移動し床に就きました。なんとも満ち足りた夜であったことをよく覚えています。

遂に辿り着いたイスファハーン。
朝であろうが、昼であろうが、夜であろうが、息を呑むほど美しい。


全てに心を奪われたイスファハーンの日々

 さて早速翌日から、私のイスファハーン散策が始まりました。昼過ぎに起きだして、朝食兼昼食を広場で食べました。この時に食べたのは、現地でビリヤニと呼ばれるハンバーグのような料理で、有名なパキスタンやインドのビリヤニとは全く異なります。この料理、正直なところ特に美味しいというわけでもないのですが、何はともあれイスファハーンの中心イマーム広場でイスファハーン名物を食べたという点に価値があると一人納得していました。その後は広場の四方に聳え立つ主要な建築を、アーリー・カープー宮殿、イマーム・モスク、シェイフ・ロトフォッラー・モスク、そして北のカイセリーエ門の順番で回りました。これら四つの主要な建物は、広場の四辺をなす回廊で接続されているのですが、この回廊はバザールでもあり、美しい工芸品を扱う店が所狭しと立ち並んでいます。この広場の全体としての美しさもさることながら、モスク内部のタイル装飾はまさに圧巻というほかなく、数十分のあいだ無心で天井を見上げていました。

イマーム・モスクから北を眺める。
左から順に、アーリー・カープー宮殿、カイセリーエ門、シェイフ・ロトフォッラー・モスク。
アーリー・カープー宮殿のテラスからイマーム・モスクを眺める。
イマーム・モスクの入り口。
イマーム・モスクの中庭へ。四面を壮麗な建物が囲んでいる。
イマーム・モスクの核である部分。
恐ろしく巨大であるが、一方でタイル装飾は息を呑む緻密さである。
しかし位置関係上、この場所は大体いつも逆光である。
上を見上げてばかりで、首が痛くなってきた。
朝の早い時間に行くと、採光窓から射す光が美しい。
中庭には猫が多く住み着いている。
シェイフ・ロトフォッラー・モスク内部の美しいタイル装飾。

 夜には、ザーヤンデ川に架るハージュ橋を訪れました。この橋もまた古い石造りの橋で、夜になると人々が集まって歌を歌ったりチャイを飲んだりと、市民憩いの場としての顔を見せます。私もライトアップされた橋の風景を楽しみながら、人々の合唱にしばし聴き入りました。ザーヤンデ川は普段水不足で干上がっているらしいのですが、私が訪問した時は幸運にも殆ど洪水一歩手前のような水量で、なんといってもイスファハーン人は川に再びあれだけの水が流れたことを大いに喜んでいました。

夜のハージュ橋。水面に写る橋の姿は、近年イスファハーンから失われていた景色である。

 次の日はバザールで銅のカップを購入したり、イマーム広場からバザールで繋がっているジャーメ・モスクを訪問したりと少し肩の力を抜いて過ごしました。またその翌日は、二度目となるイマーム・モスクへの訪問を堪能し、その後はアルメニア人居住区へ向かい、アルメニア教会を見学しました。イスファハーンのイマーム広場はサファヴィー朝のアッバース一世によって建設が始まりましたが、それと同時期に彼はタブリーズの北西に位置するジョルファからアルメニア人をイスファハーンへ移住させました。彼らは現在でもコミュニティを維持しており、アルメニア人居住区ではアルメニア文字を見かけると共に、複数のアルメニア教会が現役で活動しています。この居住区は新ジョルファと呼ばれていますが、さてその本家ジョルファこそ、私がイラン最初の晩に宿泊した街なのです。

イマーム広場を取り囲むバザールにて銅器を買い求める。
買って早速熱々のチャイを注いだ。
取っ手まで熱くなって、とても持てたものではない。
銅であるということをすっかり忘れていたのだ。

 次の日は朝から車に乗って、近郊のヴァルザネという村へ。この村の周辺は砂丘が連なる砂漠になっており、礫砂漠が大半を占めるイランでは比較的珍しい場所なのです。私たちが訪れた日は風が非常に強く、ちょっとした砂嵐に飲み込まれる形となりました。砂嵐というものは本当に恐ろしく、目もまともに開くことができません。砂が穴という穴、隙間という隙間に入り込んできます。視界も奪われるので、砂漠の中でこれは確かに生命に関わるぞ、と身を以て理解しました。幸いに我々は駐車場から数百メートルの距離にいましたので、無事に帰り着くことができました。翌日もイスファハーンでのんびりしていたのですが、テヘランのインド大使館から連絡が入り、ビザの用意ができたので取りに来いとのこと。翌朝のバスに乗って、一泊二日でテヘランへビザとパスポートを回収しに戻りました。

ちょっとした砂嵐に吹かれた、砂漠でのピクニック。
OM-1の防塵性能を信じて撮影を強行したが、この後しばらく各部がジャリジャリ鳴っていた。
数か月経ち、問題も起きずかつ音もしなくなった。

 テヘランに帰ってきた晩、遂にイスファハーンを発つ決意を固め、最後の夜歩きに出かけました。行先は勿論イマーム広場。先ほど、イマーム広場は朝も昼も夜も美しいと書きましたが、それでもやはり夜の静けさと美しさは別格です。比類ない威厳を感じます。深い満足を覚えつつも後ろ髪を強く引かれる思いで宿へ帰り、就寝したころには時計の針は午前零時を大きく回っていました。

夜のイマーム広場。神聖な美しさがある。

 結局翌朝もう一度イマーム広場へ散歩に出かけ、今度こそと最後の別れを告げてから走り出したのは例のごとく昼過ぎになってから。嗚呼、私は結局何回あの広場を訪れたのでしょうか。ペルシャ語には、「イスファハーンは世界の半分」という言葉があります。この言葉は”Isfahan, nesf-e jahan”という具合に韻を踏んでいます。果たしてイスファハーンが本当に世界の半分なのかという点については議論があるでしょう。しかし少なくとも、イスファハーンはイランの半分であると、私は確信しています。


ヤズドとはイランである

 イスファハーンを出てからは、シーラーズへ至る幹線道路を走っていきました。この日は80kmほど先のシャーレザという町へ。ここでもまた古い邸宅を改造した宿に泊まりましたが、宿の主がそれこそ歴史的建造物の修復に使われるようなタイルを制作する職人であることもあり、非常に面白い滞在になりました。翌日宿を出てから次の町、アーバーデーへ。10kmほど走ったところでサンダル両方とサイクリンググローブの片方が無いことに気づき慌てて宿まで戻るも、宿でも見つからず。半ば絶望しながら最初に走った道を辿っていくと、奇跡的にすべての落とし物を道路で見つけることができました。合計で20km余計に走ったことになってしまいましたが、どれもそれなりの値段がする愛用品だったため、ほっと胸を撫で下ろしました。その後はいつも通り砂漠を延々と走っていくも、この日は距離が長かったうえに落とし物騒ぎもあり、途中で完全に日が暮れてしまいました。日没後も砂漠の中の真っ暗な道をひた走っていったのですが、砂漠であるゆえに視界が開けていることと、車が通り過ぎた後は静寂が支配することもあり、案外心地よいものでした。とはいえ、ヘッドライトが照らせていないところから急に現れる犬の死体には、何度か悲鳴をあげさせられました。この日は、シャーレザの宿の主人の友人が私を泊めてくれるとのことだったので、彼の家へ向かいました。現れたのはまるで北欧人のような容貌の男性でしたが、彼もまたれっきとしたイラン人なのです。かの夫妻は数か月後にオランダへの移住を控えているとのことで、引っ越しの準備を進めている最中でした。
翌日は彼らのお宅に自転車と荷物を残して、タクシー運転手をやっている彼らの親戚の方にヤズドまで連れて行ってもらいました。アーバーデーからヤズドまでバスで行けるだろうとたかをくくっていたのですが、どうもそういうわけではないようで、高額ではありますが貸し切りタクシーで行くほかありませんでした。とはいえ、二日後の帰りのタクシーとの値段交渉の際に分かったのですが、相場よりだいぶ安い値段で運んでもらったようでした。
 そうして着いたヤズドは、イランの中でも歴史上特に重要な街の一つです。ゾロアスター教の中心であると同時に、旧市街はまさにペルシア世界を凝縮したような空間になっており、イラン旅行では絶対に外せない場所です。迷路のような路地がどこまでも続く旧市街には伝統的な建築が無数に立ち並んでおり、特に古代以来の知恵の結晶である、バードギールといわれる空調用の塔が立ち並ぶ風景はヤズドの象徴です。人通りの少ない静かな旧市街の路地をあてもなく歩いていくと、とても自分が2023年に生きているとは思えなくなってきます。宗教的に厳格な都市のひとつであることもあり、旧市街を歩く地元の女性の多くは全身を覆うチャドルを着ています。そういったことも合わさって、ヤズド旧市街を歩くのはちょっとした時間旅行のようなものなのです。私はすっかり魅了されました。

旧市街のカフェの屋上からの眺め。これを見ることができただけでも、来た甲斐があった。
旧市街の中心、アミール・チャグマグ。

 さて、ここまではイスラーム色の強い旧市街の話ばかりしてきましたが、ヤズドはゾロアスター教を語る上でも外せない場所です。ヤズドは古来よりゾロアスター教の中心地であると同時に、現在でもゾロアスター教が活動している数少ない場所の一つでもあります。市内には五世紀よりその火を絶やすことなく燃え続けている拝火神殿が存在し、郊外には20世紀中ごろまで使用されていた鳥葬に用いる塔、沈黙の塔が二基存在します。また、これらの施設で現在働いている人々も現役のゾロアスター教徒なのです。

沈黙の塔。
ゾロアスター教では死を不浄なものとして捉え、一方で土や火といったエレメントを清浄なものとして崇めた。不浄な死が清浄な大地を汚染しない方策を求めたゾロアスター教徒は、
遺体を高く聳え立つ塔の上に安置することで、大地から離すという手段を考案した。
沈黙の塔の周辺には、参列者が宿泊するための施設が複数存在した。
不浄なものである死を生者の居住区から遠く離す必要があったため、
沈黙の塔は当時の市街地から歩いて一日ほどかかる位置に設けられた。
そのため、宿泊施設が必要だったのである。
今もその火を絶やさない拝火寺院。

 ヤズドには二泊し、最終日の夕方になってから、名物のお菓子をお土産に購入してアーバーデーへと帰るタクシーに乗り込みました。帰りは行きの倍近い値段だったことを覚えています。


イランをイランたらしめる古代の歴史、ペルセポリス

 アーバーデーに帰ってからは、お世話になっている夫婦と食卓を囲みました。同じマンションに住んでいる親戚一同も集まって、しばし楽しい歓談のひと時を過ごしてから就寝。翌朝は少し用事があったので、結局走り出すのが遅くなって昼過ぎに自転車に跨りました。町を出て20kmほど走ったところで、記念すべき10,000km地点に到達。ポルトガルのロカ岬を出発してから八か月近く、やっと走行距離計のキロメートル表示に小数点以下が表示されなくなりました。

10.000km!

 その後は事前に予約していたサーファ・シャフルという小さな町の宿へ。例のごとく古い建物を改装した美しい場所で、宿の主人はこういった古い邸宅でよく見るステンドグラスの職人でした。非常に心地よい滞在でした。
翌日はアケメネス朝最初期の遺跡である、パサルガダエ遺跡へ。王朝の開祖、キュロス二世の墓で有名な遺跡です。しかしそれ以外はペルセポリスにより優れたものがあるのがわかり切っていたので、全体をざっと見まわるくらいの訪問でした。遺跡を見終わったころには日が傾いていたため、急いでサアダート・シャフルの町の宿へ。またしても古い建物を改装した宿でした。

キュロス二世王墓。

 翌日は一転して見るものが多すぎる一日でした。まずは宿を出てから渓谷沿いに走り、ナクシェ・ロスタム遺跡へ。この遺跡はダレイオス一世やクセルクセス一世などのアケメネス朝の著名な大王の墓が並ぶ非常に重要な遺跡です。崖に掘りこまれたこれら王墓は、しかしながら様式、装飾の上ではほとんど全て同一といってよく、私には区別がつきませんでした。アケメネス朝の崩壊後この場所は長らく重要性を失っていたようですが、アケメネス朝の正当後継者を自認するサーサーン朝が三世紀に成立して以降は、この場所自体が一種の信仰の場となったようで、有名なシャープール一世がローマ皇帝ウァレリアヌスを跪かせているレリーフなど、多くのレリーフがアケメネス朝の王墓群の下に掘られました。

ナクシェ・ロスタム遺跡。

 次に向かったのは、ナクシェ・ロスタム遺跡とペルセポリス遺跡の間に位置するナクシェ・ラジャブという小さな遺跡。こちらは純粋なサーサーン朝期の遺跡で、いくつかのレリーフを間近から鑑賞できます。しかしこの時思ったのは、サーサーン朝のレリーフはアケメネス朝期のものに比べて退化しているのではないかということ。全体的に様式として確立されていない感覚や、プロポーションの稚拙さが否めません。独自の様式として確立されていたアケメネス朝様式がアレクサンドロス大王の東征に伴うギリシア様式の流入で放棄されたのが原因ではないか、というのが私の推測です。実際それを裏付けるように、ベスヒトゥン碑文の近くにあったセレウコス朝期のレリーフは見よう見まねでギリシア様式を模倣しただけのもので、非常に稚拙なものでした。

ナクシェ・ラジャブのレリーフ。

 そして次に向かったのが、大本命のペルセポリス遺跡です。現代ペルシャ語ではタフテ・ジャームシッドと呼ばれています。言わずと知れたこの大遺跡は、ダレイオス一世が祭政上の首都として建設を始めたもので、まさにアケメネス朝美術の白眉と言えます。特にアパダナ殿の階段壁に掘られたレリーフは、近年まで砂の中に埋まっていたこともあって素晴らしい保存状態を保っており、その美しさには感嘆しました。

万国の門。
ダレイオス一世であろうか、クセルクセス一世であろうか。大王の姿が掘られたレリーフ。
ファラヴァハルと呼ばれる、ゾロアスター教における精霊的存在。
これは何であろうか。スフィンクスのようなレリーフ。
百柱廊の門のうち、状態が良いもののレリーフ。
アパダナ殿の素晴らしいレリーフ。
牛であろうか、あるいはアンテロープであろうか、ライオンが襲い掛かっているレリーフ。
様式として完成されており、美しい。
夕暮れのペルセポリス遺跡。

 さてこの壮大な王都はアレクサンドロス大王と彼の軍が辿り着くに至り破壊されつくしたわけですが、そんなことを考えながら遺跡を眺めていた時、私は自分がまさに大王の生誕地であるマケドニアのペラ遺跡からペルセポリスまで自転車で走ってきたことに思い至ったのでした。
 ペルセポリスには一泊し、夕方と午前中にそれぞれたっぷり時間をかけて観光した後、シーラーズまでの60kmを走りました。


海を求めて、シーラーズからバンダレ・アッバースへ

 シーラーズは意外なことに街自体にはそれほど観光名所がありません。もちろん美しいバザールや庭園があるので、あくまでイスファハーンやヤズドと比べてしまえば、の話です。この寄稿の最初の方でも書きましたように、シーラーズはテヘランに次いで自由で開放的な空気を持つ都市です。ヤズドとは対照的に、若い女性は殆どヒジャブを付けずに出歩いています。とはいえそんな街でも警察が完全に黙認しているということはありません。到着した日の晩には縁あって若いイラン人女性三人と連れ立って食事に出かけたのですが、我々が外のテラス席で食事をしているときに女性店員がこちらへやってきて、数分後に警察が来るからヒジャブを着用するように求めました。彼女たちは仕方がないのでヒジャブを着用したのですが、十分ほど経った頃でしょうか、実際にパトカーが通りの反対側に停車しました。警察はしばらく車の中からレストランの様子を観察した後去っていき、周囲の女性客も皆それを見届けてヒジャブを外しました。私は日々こういったことの中で生きていかなければならない彼女たちに同情しました。彼女たちによれば、イスファハーンやヤズドのような宗教色の強い街には間違っても住みたくないそうです。
 さて翌日と翌々日は、シーラーズ市内の観光に充てました。まず向かったのはエラム庭園。カーシャーンのフィン庭園と同様に、世界遺産に登録されたペルシア式庭園の傑作の一つです。やや亜熱帯を感じる木々や、ヒジャブを被らずに寛ぐ女学生など明るい雰囲気の庭園でしたが、私はどうもフィン庭園の方が好みだと感じました。その次はバザールへ。食品から宝飾品、そしてペルシャ絨毯まで揃ういつものバザールです。ただ他の町に比べてより洗練されているように感じました。シーラーズを発つ日の朝には、有名なナーシル・アルムルク・モスクへ向かいました。ステンドグラスを照らす光がもたらす幻想的な光景により、よくピンクモスクと呼ばれている場所です。

大バザールの一角の絨毯屋。
ナーシル・アルムルク・モスク。期待を上回る美しさだった。
この光景を見るためには、冬場の朝早くに行く必要がある。

 シーラーズを出発してからは、約600km先のバンダレ・アッバースを目指す旅が始まりました。この区間はそれまでのイランと比べても人口が希薄で、食事や宿泊場所の確保にやや困難を抱える場合がありました。とはいえ、そういった窮地を救ってくれるのがイラン人。特に人々の温かさが身に染みる区間でした。
 初日はシーラーズからサルヴェスターンへ。特に問題のない一日でした。翌日はサルヴェスターンからファサーへ。食事も宿も問題なく見つかったのですが、イスファハーンで解決しておいたはずの携帯電話の登録作業絡みで問題が発生し、インターネットも電話も使えないという事態に陥ります。イランでは、密輸対策のため政府機関に登録されていない携帯電話は三十日後にブロックされるのです。実際には三十日目でブロックされることもあれば四十日を越えても音沙汰がない場合があるそうですが、私の場合は三十五日目にブロックされました。これを解除するためにイスファハーンの携帯電話屋に登録料100ドルを支払って登録の依頼をしたのですが、それがどうも上手くいかなかったらしい。宿で働いている若い女性に助けを求めたところ、友人が携帯ショップを経営しているので退勤後に彼のところへ行こうとのこと。それで何とかなるのか未知数でしたが、他にどうしようもないため彼女の退勤時間を待つことに。
 さて退勤時間になりその携帯ショップを訪ねてみたところ、奇跡的に主人が英語に堪能だったため、非常にスムーズに意思疎通ができました。彼はすぐにイスファハーンの店に電話をかけ事と次第を説明したのですが、相手はもう済ませたとの一点張り。しかし政府機関から私の番号に送られてきたSMSを見て、手続きがまだ完了していないことを確信した店主は、何度もかけ直します。遂にはイスファハーン側がこちらの番号を着信拒否したようなので、別の電話番号からまたかけ直しました。すると相手も観念したのか作業がまだ完了していないことを認め、先ほどまでもう消去したと言い張っていた登録コードを送ってきました。この結果無事に登録を完了させることができ、その場で私のインターネット接続も復活しました。とはいえ、今回の件で相手方に嘘をついてまで誤魔化す理由はなかったはずで、その点については疑問と呆れが残りました。一方で、退勤した後も私を助けようとしてくれたホテル従業員の若い女性、そして何より親身に解決へ導いてくれた店主へは、感謝してもしきれません。彼の名はモエイン、困っている人を助ける人、という意味の名前だそうです。翌朝彼の店へ再訪し、OM-1と外付けマイクを接続するケーブルを買い換えた後は、ダーラーブの街へと走りました。ダーラーブの近辺は背後の山から流れる水のおかげで果樹園などが多く、ひたすら砂漠を走ってきた私に一時の癒しを与えてくれました。

まだ緑が現れる手前の、ダーラーブに至る道。当時はこの景色に完全に食傷気味だったが、
改めて見直すと壮大である。

ダーラーブでは他にそれらしいところが無かったため、非常に評価の高い街一番の宿へ向かったのですが、なんと満室であると言われました。さてどうしようかと考えていると、礼拝室が空いているので格安料金でそこに停まっていくとよいとのこと。料金なんと4ドルですから、二つ返事で了解しました。シャワーを浴びてから礼拝室に戻ると、入り口に「ゲスト宿泊中」の看板が。中に入って見ると布団が敷かれていた上にアメニティ類まで用意されていたので、どうやら例外的な対応というわけではなさそうです。
 ダーラーブ近辺にはサーサーン朝時代の遺跡が多く点在しており、その中でも特にホテルの名前にもなっているナクシェ・シャープール遺跡が有名です。これはナクシェ・ロスタム遺跡のものとよく似た、ローマ皇帝ウァレリアヌスを跪かせるシャープール一世をテーマにした壁画です。その他にも、ゾロアスター教の拝火寺院またはネストリウス派キリスト教のものと推定される岩窟遺跡があるので、私は翌日一日休みを取りこれらの遺跡を回りました。

ナクシェ・シャープールのレリーフ。

 ダーラーブを出てからはバンダレ・アッバースまで、なんと宿が一切ない300kmが続きます。初日はフォーグという小さな町へ。日が暮れてから到着し、とにかく誰かに話しかけてみようと思って町の中心へ向かっていたら、こちらが話しかけるより早く売店に招かれ、そこの店主の自宅に招いていただきました。夕食を食べてから店主の弟が運転する車に先導され、町はずれの家へ。老齢のご両親、そして子供たちに大変暖かくもてなして頂きました。この家族は思慮深い方揃いで、本当に良くしていただきました。
 翌日はSar Chahanというこれまた小さな町へ。こちらでは、食堂の裏手に許可を貰ってテントを張っていたところ、それならばモスクに泊まっていけと通りすがりの男性に招いていただきました。モスクでは男性たちが円座し、宗教的な題材について議論しているようでした。上意下達ではなく田舎町でもこうして議論が行われている様子に、正直なところ私は驚きました。
 そして迎えた最終日。朝早くにモスクを出発しまずは峠を越えて、そこからはひたすら海岸を目指して降っていきます。途中はまるで火星のような風景で、長く続いたイラン高原との印象に残る別れとなりました。

道中の景色。巨大な褶曲。

 この日は随分長く走り、夕方になりやっとバンダレ・アッバースの周縁へ辿り着きました。郊外にはおそらくアフガニスタン難民の形成した難民キャンプらしきものがあり、市街に入っても道路脇の排水路沿いにアフガン難民らしき人々が多数佇んでいました。おそらく彼らは水を求めてそこにいるのでしょう。バンダレ・アッバースはイラン屈指の貿易港で、湾岸諸国やインドなどから人が集まります。そういった人の集まる性格ゆえに、彼ら難民もやってくるのでしょうか。バンダレ・アッバース含め貿易港は概して物価が高いため宿探しにだいぶ苦労しましたが、多少の出費は受け入れてホテルの一室を確保しました。しかしなにはともあれ、長い長い砂漠の旅を終え、遂にペルシャ湾に至ったあの感動、頬を撫でる生暖かい潮風は忘れられません。

乾燥しきった砂漠を走り抜ける中で、特に手の皮膚は酷いことになっていた。
そんな中、海の湿気がとても嬉しかった。


美しきホルムズ島の日々

 翌日は軽くバンダレ・アッバースの街歩きをしてからフェリーターミナルへ向かい、ホルムズ島行きの船に乗り込みました。ホルムズ島はペルシャ湾の要所ホルムズ海峡に浮かぶ周囲40km程度の島です。イラン国内では人気のリゾート地であり、警察も殆どいないため非常に自由な場所で、短いスカートにノースリーブを着た女性を見かけるのはイランでもホルムズ島ぐらいでしょう。とはいえ、現地住民はどちらかというと敬虔なムスリムが多いように見受けられたので、同じイラン人でも観光客と彼らの間で軋轢が無いのかは少し気になるところでもあります。
 さて、ホルムズ島訪問の最も大きな目的は釣り。ペルシャ湾に浮かぶ島と聞いたら、私はもう自制が効きません。初日の晩から情報収集に勤しみ、翌日の昼前から実際に釣り歩き始めました。まず舞台に選んだのは、フェリーが発着する港の突堤です。大きな石を組んで作った構造のため非常に歩きづらかったですが、磯場をのぞけば島で一番潮通しが良さそうに見えたので選びました。そして私の目論見は見事命中し、一時間ほど投げただけでも複数回のアタリがありました。しかしどのアタリも拾いきることができず、悔しさを残したままこの日は竿を仕舞い、その後はテヘランで知り合った日本人サイクリストのリョウさんとの再会を楽しみました。

ホルムズ島の夕焼け。
リョウさんはギターと自転車を相棒に、ユーラシアを旅している。
もう六年帰国していないそうだ。

 翌朝は日の出前に起きだして、日の出前後に活発に動き回る回遊魚を狙いに同じ堤防に向かいました。この時は潮もよく流れており、前日にアタリが多かった場所だけに期待が高まります。日本ではスズキやタチウオを狙う際に良く用いられるルアーをセットして一投目、なんとすぐに小気味よいアタリが!今回は上手く針に掛けられたこともあり、魚は暴れながらですがそのままこちらへ寄せられてきます。そうして釣れたのは、体長49.5cmのカマスの一種。カマスというよりはバラクーダの子供でしょうか、市場では同じ魚の体長1メートルを超えるようなものが売られていました。
 最大の目的を早い段階で達成できたこともあり、私はまさに有頂天になりました。魚の血を抜きビニール袋に詰めて、十分ほど釣りを続けた後は、これでもう夕食には十分だろうという考えで釣り場を後にしました。その後は魚の下処理をして、昼寝。夕方になってから島をすこしうろついて、海岸で蟹取りをしていた少年から一番立派な蟹を買い取りました。以後ホルムズ島で子供たちが観光客に蟹を売りつけるようになったら、それは私のせいでしょう。夜にはそれらの食事を使って夕食を作りました。醤油とワサビは手に入らなかったので、塩とオリーブオイルとその他香草でカルパッチョを作りました。普段生魚を食べない宿の人たちにも大好評で、大満足の夕食となりました。食後の私は、ここまで成果の出ないまま持ち運んできた釣り道具がただの飾りでないことを証明できた嬉しさを胸に、疲れた身体をベッドに横たえました。

遂に釣り上げた念願の一匹!
蟹取りに興じていた少年。蟹の身は美味かったが、味噌は泥を煮詰めたような味がした。

 無事に魚を釣り上げ、まるで憑き物の取れたように他のことを考える余裕を手に入れた私は、翌日に自転車で島を一周しました。ホルムズ島は地質的に大変面白い場所で、島全体がまるで岩塩ドームのようになっています。他にも赤い砂浜や奇岩の類など、見どころが付きません。中盤まではその景色を青空のもと楽しんでいたのですが、ある時点から雨が降り始めしまいには嵐になってしまいました。ずぶぬれになって町に帰ってきたを待っていたのは冠水した道路に、機能しなくなったインターネット回線。デジタルデトックスの一晩になりました。翌日になり、帰りの船に乗るまでに時間があったので、今度は原付を借りてまた島を一周することに決めました。宿の主人が雨の後は全てがより色鮮やかになると教えてくれたからですが、台風一過の快晴も手伝ってまったくその通りでした。

レインボー・ヴァレーと呼ばれる場所。
レッド・ビーチ。

 バンダレ・アッバースに帰ってからは、どこも満室だったため宿探しに大いに苦労しましたが、結局街外れのホステルのロビーで寝かせてもらうことができました。


パキスタンを目指し、バルチスタンの砂漠をひた走る

 翌日バンダレ・アッバースを出発すると、猛烈な向かい風が私を苦しめます。下を向いて歯を食いしばりながら、時速15kmでゆっくりと進んでいきます。途中ラクダの放牧を見かけるなど、砂漠は砂漠でもこれまでの砂漠とは違う景色に心躍る瞬間もありましたが、全体としては苦しい一日でした。目的地のミーナーブの町に入ると、走行中の足元から弦が切れるような音が。まさかと思い立ち止まってホイールを確認すると、案の定スポークが一本折れています。思えばよくここまでスポークを一本も折らずに来たものだと思いましたが、それはそうとしても予備を持っていなかったため困ったことになりました。町の自転車屋をいくつか回りましたがやはり適当な長さのものが見つかりません。これはバンダレ・アッバースに戻る必要があるな、しかしどの店へ?と悩んでいたところで、話を聞きつけた地元のサイクリングクラブの会長が英語に堪能な娘さんを連れ立って、私が泊まっていた宿へとやって来ました。彼はバンダレ・アッバースの腕利きメカニックにすぐに連絡を取り、必要な長さのスポークの取り扱いがあることを確認。さらになんと、延泊が必要になった分の私の宿代まで払ってくれたのです。輸入車がまるでないイランでランドローバーに乗っていたので、相当裕福な方なのだとは思いますが、それにしても驚くほど親切な方でした。翌日は休日でどこも休みだったためミーナーブに滞留し、その次の日に娘さんの助けも得つつホイールを担いでバンダレ・アッバースへトンボ返りしました。バンダレ・アッバースのメカニックは噂通りの腕利きで、素早くスポークを交換した後は簡素な設備ながら手際よくホイールの振れ取りも済ませてくれました。加えて、予備のスポークも十本入手でき、この後に控えるバルチスタンの過酷な道へ向けての準備が整いました。
 翌日再び走り出すと、それまでとは自転車の進み方が明らかに違います。上手な人に振れ取りをしてもらうだけでこうも違うのかと感動しながら、ジャースクを目指して走っていきました。とはいえ、ジャースクは一日でたどり着ける距離ではなく、また途中に宿もなかったため、100kmほど進んだ場所にある小集落のモスクの裏にテントを張り、夜をやり過ごしました。次の日は130kmほどを走り、ジャースクへ。このあたりまでやってくるといよいよバルチスタンへ入ってきたという感覚がしてきます。イスラームはイスラームでも、この地域ではイランで主流のシーア派ではなくスンニ派が主体になってきます。また、インド人やパキスタン人が多い影響なのか、バンダレ・アッバースが既に若干混沌としており汚い部分もあったのですが、ジャースクまでくると段々それが顕著になってきます。町中の砂浜などはかなりの惨状です。とはいえ疲れを感じていたので、ジャースクには二泊してチャーバハールまで一気に走り抜ける英気を養いました。
 ジャースクを出た日は120kmほど先のLirdafという砂漠の中の小さな町へ向かいました。この日は町と町の間に本当に何もなく、たまに現れる小さな村には売店すらなかったので結局ちゃんとした昼食も取れず仕舞いでした。Lirdafにも当然宿は無く、町を出て10kmほどのガソリンスタンドで野宿することに。とはいえ、ここでも礼拝室を使わせてもらうことができ、また親切なオーナーが町まで夕食に連れて行ってくれました。翌日は140kmほど進んだKahirという村へ。この日もまたひたすら砂漠を走るだけの一日でした。道端で死んでいた無数のラクダたちが記憶に残っています。また、テロが多発するスィスターン・バルチスターン州に入ってからというもの、他の州では武装しているかすら怪しかった警官たちが、自動小銃で武装しています。あぁ、遂に危ない地域へ入ってきたのだと思うと少し緊張を覚えました。さて、着いた村にはなぜか立派なロッジがあったため、快適な宿泊ができました。さらに、こちらもまた非常に親切な宿の主人がなんとお代を受け取らず、善意で私を泊めてくれたのです。イランにはタロフと呼ばれる文化があり、食堂などでも主人が代金を受け取ろうとしないことがあります。これは一種のマナーで、払わなくてよい、いや払う、というやり取りを三回繰り返して三回目でも払わなくてもよいと言われたらそれは本当に払わなくてよい、というものです。最初は今回もタロフかと思ったのですが、そうではないことがわかると、食堂はまだしも宿でもこんなことが起きるのかと、私は俄には信じられない気持ちでした。
 次の日はバンダレ・アッバースからチャーバハールまでの走行最終日。比較的距離の短い一日でした。序盤は相変わらずの荒野でしたが、チャーバハールが近づいてくると様子が変わってきます。チャーバハールはバンダレ・アッバースほどではないにせよイランの主要な貿易港の一つで、開発が遅れているスィスターン・バルチスターン州の中にあってかなり異質な場所です。また、この辺まで来ると人々の顔も服装も、イランというよりはパキスタンやアフガニスタンに近づいてきます。チャーバハール市内へ入っていくと路上や砂浜のゴミの多さに圧倒され、もうパキスタンが目前まで迫ってきたことを実感させられました。また、街中にスラムのような一角もあり、自分はもはやペルシア世界を脱してインド世界に入ってきたのだと強く感じました。

バルチスタンの風景。雄大だが、700kmの間景色がほとんど変わらなかった。

 チャーバハールでは、カウチサーフィンというウェブサイトを通じて数日間泊めてくれる人を探し、大学教員の方のお宅に滞在させていただきました。彼は近隣の遺跡へ私を連れて行ってくれたり、歴史を教えてくれたりと、最難関のパキスタン側バルチスタンに挑む最後の準備の傍ら、楽しい滞在となりました。

チャーバハールのバザール。もはやイランではなく、パキスタンである。

 二日の滞在の後、腹を括って120km先の国境へ向かって漕ぎ出しました。初日は60km先のノウバンディアーンという村へ。チャーバハールのホストの知人が宿を経営しているということで事前に連絡を入れて、やり取りをしてから向かったのですが、着いてみると誰もいません。なんと主人は日付を勘違いしており、100km離れた他の町にいるとのこと。何をどうしたらそんな勘違いが発生するのか全く理解できませんでしたが、これまでのイランでは到底起きなかった出来事に、ここでもやはりインド世界の到来を感じました。見かねた隣人が私を夕食に招いてくれたので、宿の主人が帰ってくるまでの間三時間、楽しく交流させていただきました。
 翌日は遂に国境へ。60kmの道のうち、最後の30kmは完全に何もない砂漠の中の一本道をひた走ってゆきます。遠目に小さな竜巻のようなものが、複数見えました。そして国境へ着き、随分長いことお世話になったイランに別れを告げて国境通過所へ向かいました。しかし、なんと私が到着する30分前に営業時間が終了したとのこと。時間を確認せずやってきた私が全面的に悪いのですが、話を聞いた私は文字通り膝から崩れ落ちました。翌日は休みの日ということだったので、あんな何もない場所で二泊野宿をするわけにもいかず、自転車と荷物の大部分を倉庫で預かってもらい、国境を去る最後のタクシーを何とか捕まえ、この日はチャーバハールへ帰ることができました。またしてもホストの元へ戻り、彼と夕食へ。翌日は二人でコナラックの町へ出かけました。美しい海岸が記憶に残っています。

国境までの一本道は、これまでで一番何もない道だった。
コナラック近くの海岸。
貝殻の化石を見つけた。

 次の日になり、今度こそはと朝の早い時間からタクシーで国境へ向かいます。無事に国境に着き、早速出国列に並んだのですが、直前まで進んでいた行列が私の数人前で止まったまま動きません。その状態で一時間ほど経ったでしょうか、国境一帯でインターネット回線が切断された結果、国境の端末がパスポートコントロールのシステムに接続できなくなり出国できなくなっていることが徐々にわかってきました。仕方がないので我々はインターネットが復活するのを待ち続けたのですが、結局この日は復活せず、途方に暮れる私の目の前でパキスタン側が国境を閉じました。そして国境が閉じられてからすぐ、嫌がらせのようにインターネット回線が復活したのです。私はもう殆ど正気を失いそうになっていましたが、しかし出来ることなど何もありません。友人と電話をして、なんとか正気を保ちました。夜になり、帰ることも進むこともできない私たちは国境で一夜を明かすことになりました。私はテントも寝袋も何もかも持っているからまだ良かったですが、他の人は地べたに一枚敷いたシートの上で寝ています。さながら即席の難民キャンプのようでした。見かねた最寄りの村の人々が炊き出しにやってきてくれたのが唯一の救いでした。またイランのパキスタン国境地帯は、パキスタンから麻薬を持ち込もうとする武装した密輸組織が活動しており、特に夜間は危険なため、国境の警備員から夜間は絶対に施設から出ないように言われました。
 翌朝になり人々が徐々に起きだし、皆祈るような気持ちで国境開門の時を待ちます。なんせ一日分の人が丸々国境通過を待っているので、国境は大混雑。そのくせイラン側のイミグレーションオフィサーはどうやら一人だけのようで、出国スタンプを貰うだけで一体何時間かかるだろう、という恐怖が頭をよぎりました。しかし彼らも彼らで私の顔を覚えていたようで、わざわざ私を呼びに来て最優先で通過させてくれました。大行列の中の人々には申し訳なく感じましたが、あれに付き合っていては日が暮れます。ここはありがたく好意に甘えました。
 こうして三回目にして遂にイランを出国することができ、計79日間を過ごした美しい国に別れを告げました。続くパキスタン入国審査では一瞬イランへ送り返されそうになる場面がありましたがなんとか切り抜け、無事入国できました。しかしほっと一安心したのも束の間、すぐに武装した護衛と合流し、危険で困難なパキスタンの旅が幕を開けたのです。


イランを振り返る

 この寄稿を執筆しながら改めてイランの旅を振り返ってみると、イランこそがこの旅行を通じてのクライマックスではないだろうかという思いが強くなってきます。記憶に残っているのは、まずなんといっても人々の親切さ。旅人をもてなすことを美徳とするイスラームの教義も手伝ってか、数えきれないほどの贈り物を貰い、何度も何度も見知らぬ人の家に泊めてもらいました。レストランや商店で店主が奢ってくれたことも珍しくありませんでした。こういったイランの親切な人々は決して見返りを求めません。こちらからせめて何かお返しさせてくれと言っても固辞するばかりの、本当に素晴らしい人揃いでした。
しかし全員が善人というわけではないのもまた事実です。特に軽薄な若い男の多さは、自分にとって人生でそれまで経験したことのないものでした。外国人、特に東アジア人を見るや息をするように彼らはヘラヘラと笑いながらからかってきます。付きまとってくることさえあります。それまでの国では一週間に一回あるかないかだったような差別的言動を、イランではそれこそ平均しても一日に複数回受けながら、それでも二か月半旅を続けました。自転車で走っているときには、わざわざ対向車線から反対側に渡ってきてまで自分に正面から突っ込んで来ようとする、バイクに乗った若い男の相手を何度もしなければなりませんでした。誤解を恐れずに言えば、この種の度を越した軽薄さは中東でよく目にします。インド、パキスタンにも似たような文化(?)がありますが、差別的な要素はそれほど強くありません。残念ながらイランは女性旅行者(時には男性へも)へのセクハラの酷さでも悪名高いですが、やっているのはまず間違いなく同じような連中でしょう。イランでは、暇そうにそこら辺をうろついているような若い男にはとにかく注意が必要です。ちゃんと仕事をしている人や大学生などは、若い男性でもやはり親切かつ礼儀正しい人が圧倒的多数派でした。どうしようもない人間が皆無とは言いませんが、中高年になると男性も大体毒気が抜けて親切な人揃いになっていきます。一方女性はどの年齢層でも親切で、かつ礼儀正しい人たちばかりでした。結局のところ、イランというのは善人とどうしようもない男の二極化が激しい国というのが私の印象です。しかし幸いなことに、全体としてみれば善人の方がよっぽど多い国でもあります。
次に記憶に残っているのは、文化から社会に至るまでの強い独自性です。イランは地球上の他のどことも違う、私にとって全てが興味深い場所でした。例えば車一つとっても、制裁と政府の政策の影響で路上を走るのは国産車ばかりです。この国産車というのがまた曲者で、プジョーの三十年ほど前の車種とそれに小改良を加えたものがイランで生産され、国民車として広く流通しています。他にもイランホドロ、パルスホドロといった国産ブランドの車も大量生産されているのですが、こちらもやはり性能が良いとはとても言えません。また、近年では中国車の進出も進んでいるようでJACの車などをよく見かけますが、こちらもやはりお世辞にも良い車とは言えません。その他少数の、かつてイランで生産されていた旧式の日産マキシマやマツダ3が良い車として出回っています。イラン人は大体の人が心から祖国を愛していますが、一方で謙虚なところがあるので、イランの気に入らないところは何かあるか?とよく聞いてきます。こういう時は、イラン車か通貨リアル、それか低速なうえに検閲が酷いインターネットの悪口を言えば一気に打ち解けられます。それくらい皆この三つに呆れているのです。政府批判も大体の場合は同調してくれると思いますが、さすがに避けた方が無難でしょう。
 ほかに興味深かったこと…、これはもう思い出せばそれだけで本を一冊書けそうなのですが、やはり政治と宗教、そして歴史の話を避けては通れません。イランが厳格なイスラム教国家であるというのは、多くの方がご存じかと思います。ではイラン社会もまた宗教的に厳格かといわれると、実は必ずしもそうではありません。もちろん日本とは全く違う常識を持つ社会ですから、日本人から見た時に宗教的に厳格というのは間違いではないのですが、報道などから皆さんが想像されているほどのものではないのも確かです。こうした姿は、現地の人々との、他国ではとても期待できないほどの濃密な関りを通じて見えてきました。以下の内容は、私が自分の目で見た内容の外に、イスファハーンでお世話になった同年代の女性個人の見解と個人的な経験に基づきます。また、宗教の話ができるまで深く会話を掘り下げられた相手はほぼ高等教育を受けた英語話者に限られるので、サンプルにも偏りがあるでしょう。
 さてまずは若い世代、特に都市部の若者たちで宗教的と言える人は恐らく相当少数です。少なくとも多数派ではないでしょう。例えば彼女自身は「自分は間違ってもムスリムではない」とのことで、他にも知り合った多くの若者のうち、特に女性は同様のスタンスの人が多いように思いました。男性からも宗教の存在を意識する瞬間は殆どありませんでした。タブリーズを出た日の田舎町で泊めてくれた、泊まらせられたとも言えるかもしれませんが、その彼が若い男性の中で唯一私にイスラームについて熱弁してきた例でした。とはいえとりあえず自分は仏教徒だと伝えたところそれ以上は無かったので、特に不愉快というほどでもありませんでした。
では中高年はどうなのでしょうか。イランで礼拝の時間にモスクへ行くと、基本的には中高年以上の男性しかいません。ただし信仰の篤さに性差はあまりないとのことなので、女性は家で礼拝を済ませているのかと思われます。女性専用の礼拝室が無い限り、そもそもモスクは基本的に男性専用のものである点に留意が必要です。その中高年でも、礼拝を真面目にやる人は半分程度だと、彼女が教えてくれました。かつてはイスラームを実践していたが今や完全に放棄したという中年男性にも田舎町で出会いましたが、それほど珍しい話ではなさそうな様子でした。トルコでは時間になると礼拝をする人をありとあらゆる場所で見たのに対して、イランではモスクの外で礼拝する人は数えるほどしか見かけません。また、トルコであれだけ大音量で一日五回しっかりと流されていたアザーンも、イランで聞いたのはそれこそ片手で足りるほどの数です。ただしこれらは、シーア派とスンニ派の違いからくるものなのかもしれません。実際に、イランの中でもスンニ派が優位のバルチスタンでは、アザーンを頻繁に聞きました。
この世代のイスラームを信仰する人たちとも度々関り、時には互いの宗教観について意見を交わす機会もありましたが、彼らが私に信仰を押し付けてくるようなことは皆無でした。無神論者というと響きが悪いので、私はとりあえず仏教徒を名乗っていましたが、イランでは大体どの人もその点を尊重してくれたので大変楽でした。それこそモスクに招かれて宿泊した時も、一切宗教の話もないままにもてなされました。彼女の見解では、大体国民の半分か少し多い程度がムスリムと呼べる人たちだろうとのことでしたが、これは裏を返せば国民の半分近くは非宗教的な人々ということになります。であれば、イランのムスリムたちは身の回り、または家庭内に非宗教的な他者がいることに慣れているのでしょう。例えば彼女の両親は自他ともに認める敬虔なムスリムですが、娘が成長するにしたがって宗教行事に参加しなくなったことも、現在では宗教の類を拒否していることも受動的ではあれ受け入れているそうです。
さてイランのこれは、隣国パキスタンとは真逆です。パキスタン政府はイラン政府に比べれば随分緩いですが、一方で人々は熱心なムスリム揃いで、とてもではないですが微塵もイスラームを批判できるような空気ではありません。実際に、イスラームを侮辱したとされた人々が群衆にその場で殺害される事件がパキスタンでは後を絶ちません。英語話者の若者などでも、インスタグラムのプロフィール欄に「神の御心のままに」などのお決まりの宗教文句を書いていることが大変多く、特にその点にイランとの決定的な違いを感じました。イランで英語話者の若者がいたら、熱心なムスリムである可能性は相当低いでしょうし、大抵はその逆です。イランにいる間でも既に、人々が思っていたより宗教的でないことの理由探しをしていましたが、やはりパキスタンに入ってイランとの違いを強く認識してからは、さらに深くその理由を探す日々が始まりました。市民社会の中でイスラームが完全に絶対化されており、言葉を選ばずに言えば盲信していると感じたパキスタンと、ある程度以上相対化されているイラン。その違いは何かということを突き詰めていったとき、思い至ったのはイスラーム化以前の歴史でした。
 ペルセポリスしかりゾロアスター教しかり、イランには古代ペルシアの重厚な歴史があり、古代ペルシア人の直系の子孫たる現代イラン人のうち、多くの人は失われた帝国に多かれ少なかれ憧憬を抱いているようです。ゾロアスター教はイスラームから見れば異教ですが、ゾロアスター教のシンボル的存在のファラヴァハルはイランを象徴するシンボルの一つとして現在でも根強い人気があります。革命前にはイラン・ナショナリズムの象徴として殊更に称揚された古代ペルシア文化ですが、イスラーム革命を経た後もやはり人気なのです。ではその古代ペルシアを滅ぼした侵略者はいったい誰なのか?その侵略者こそまさに、アラブ人によるイスラーム軍なのです。国立博物館の展示説明でも、アラブ人によるイスラーム軍の征服に対しては「侵略」の言葉が使われます。時には蛮族とでも言いたげな勢いです。加えて、イラン人のアラブ人嫌いも相当なものです。この憎悪の根底にはこういった被征服の歴史に加えて、古代も今もアラブ人のことを蔑視する風潮と、ペルシャ人とアラブ人で全く民族が違うにもかかわらず外からはよく一緒くたにされることへの強い不満などがあるのでしょう。思うに、こういった経緯にこそ、イランにおいてイスラームがある程度相対化されてきたことを可能とした余地があるのではないでしょうか。
さてここまで読んできて、皆さんもなんとなくイラン・「イスラム共和国」政府がどの程度の支持を受けているのか気になってきたのではないでしょうか。これは私も正直よくわかっていないところで、未だにイラン政治に関係するニュースを追いかけながら自分なりに考え続けています。とはいえ、2022年の9月に革命以来最大の反政府抗議活動が全土を覆ったことは事実です。実はこの項の執筆に協力してくれた彼女自身も抗議活動に参加した一人です。彼女は抗議集会に参加することの他に、スプレー缶を使って深夜に抗議スローガンを落書きするといった活動を個人的に行っていました。彼女の父は彼女が反政府デモに参加することには反対せず、むしろ身の安全の為に付き添ってくれたそうです。彼女の父のように、ムスリムを自認するものの現政権には批判的な人も少なくありません。実際の抗議集会では彼女自身は無事だったものの、警察からの物理的または性的な暴力があり、ヒジャブの着用を拒否した少女の後頭部を警官が思いっきり殴るところなどを目撃したそうです。抗議活動の主体は特に十代の若い女性で、最前線で警官隊と対峙したのも彼女たちでした。
こうして全土に広がった抗議活動ですが、結局政府は鎮圧に成功します。一時は政権打倒まで行くのではないかと思われた空前の抗議活動が事実上の失敗に終わったことの衝撃は大きく、特に都市部の若い女性達の間では一種の絶望感のようなものが広がっています。あるとき彼女と食事に行ったとき、話題は海外への移住の話に移りました。高校や大学の同級生のうちかなりの人数が既に西欧先進国へ逃げ出したこと、彼女自身もこのままでは未来が無いと感じていること…。そして隣のテーブルの若い女性四人組の話題もまた、イランではないどこかへの移住でした。
こういった話ばかりしていると、前の項までで力いっぱいイランの魅力を書いてきたのとは裏腹に皆さんをイラン旅行から遠ざけてしまうかうもしれません。しかし最後に改めて強調したいのは、それでもイランの旅は素晴らしかったということです。あの国の美しさは本物です。嫌な思い出も確かに沢山ありますが、それを踏まえてもなお再訪したくなるだけの魅力が確かにあります。嫌な思い出など吹き飛ばしてしまうような、涙の出るような美しい思い出がいくらでもあります。私はこれからもイランの若い男の悪口を言い続けるでしょう。なぜならそれは、私がイランを再び訪れるたびに増えてゆくからです。


森本 太郎 Taro Morimoto
1999年生まれ。現在は大学院を休学中。
出発から一年以上が経ち、ユーラシア横断ももう終盤。
パキスタンとインドには大いに苦しまされたが、
今は東南アジアの極楽を堪能中。もうじきハノイへ至る。
東アジアはもう目前だ!
X(Twitter):@taroimo_on_bike
Instagram:@tokyo__express
Youtube:@tokyo__express


文・写真 森本 太郎



撮影機材
Camera:
OM SYSTEM OM-1
Lens:
M.ZUIKO DIGITAL ED 12-40mm F2.8 PRO Ⅱ

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