タロイモの七転八起大陸自転車横断記#06 多様な自然と文化、旧ユーゴスラビアとアルバニア編
オーストリア最後の峠を越えてスロヴェニアに入ったのは6月18日のことでした。過酷なアルプス越えを終えたと思ったのも束の間、すぐにバルカン半島のどこまでも続く山々が待ち受けていました。変わりゆく風土、文化、そして歴史。西欧からがらりと変わった世界で、悪戦苦闘した一か月でした。
西欧の香りが色濃いスロヴェニア
ハンガーノックと呼ばれる、いわば人間の燃料切れの状態になりつつもなんとかオーストリアからスロヴェニアへの峠を越えたのは6月18日の日没直前でした。一応資本主義陣営だったオーストリア(とはいえ中立政策を採用していました)と社会主義陣営(こちらも特殊な立ち位置ですが)のユーゴスラビアの国境だった場所なので、峠には要塞線が構築されていました。現在ではオーストリア側の要塞線の一部が博物館として公開されており、加えて道路沿いには旧ソ連製のT-34戦車が展示されています。麓のクランスカ・ゴーラの町でケバブを食べて近くのキャンプ場へ。今思い返せば素晴らしい景色の場所でしたが、なんせアルプスの本体を越えてからわずか数日後のこと。こういう時に他と比べてしまい素直に感動できなくなってしまう自分を見つけるたびに、どうも損をしているような気がします。
翌日は首都リュブリャナまでの走行でしたが、出発後すぐに道路標識を読み間違えて警察に罰金を徴収されてしまう事態が発生しました。冗談にならない金額だったのでかなり出鼻をくじかれましたが、知らなかった自分が悪いので気を取り直してリュブリャナまで到達。一国の首都というには随分小さな街だと感じましたが、それでも振り返ってみればバルカン半島の内陸の都市ではかなり立派な部類です。ここには膝を癒すことを主眼に置いて四泊しました。
リュブリャナは率直に言って観光資源の乏しい街で、なかなか旅行者が行く場所ではありませんが、なにより非常に落ち着いた清潔な街なので、私のような自転車旅行者が脚を休めるには最適な場所なのです。見るものが多い街では、休養のはずが観光に繰り出してしまうので、なかなか身体が休まりません。
とはいえさすがに一日は観光に費やさねばというもの。バルカン最初の国がスロヴェニアでしたので、最初は社会主義時代の香りが色濃く残る街並みに驚いて自分も遂に西欧を飛び出したと思ったものですが、バルカンを走破した今になって思い返せば、スロヴェニアはまだ西欧といってもよい景観、文化の国です。
弾痕が出迎えたクロアチア
クロアチアといえば、ドブロブニクに代表されるアドリア海沿岸の観光地で世界的に有名ですが、なにせそのような場所では物価が異様に高いことと、当時、私のシェンゲン協定内の滞在日数がめいっぱいになりつつあったことから、残念ながらこの国はスロヴェニアとボスニア・ヘルツェゴヴィナの間にある最も国土が狭まる部分を走っただけに過ぎません。滞在時間にして言えば20時間程度に過ぎません。ですので、書けることはあまり多くないのですが、それでも見てきたことを少し書き連ねさせていただきます。
まずクロアチアに入国して最初に、弾痕のある看板に出迎えられました。ヨーロッパではこういった看板が村や町の入り口に必ずあるのですが、当たり前ですが弾痕のあるものは初めてです。その弾痕も狩猟用の散弾銃のものには見えなかったので、なかなかの衝撃を受けました。もしかしたら酔っぱらった住民が看板を的にして遊んだのかもしれませんが、どちらかというと内戦の痕跡と考えた方が合理的だと思えました。とはいえ今はもう内戦から時間が経ち、観光業のおかげで経済的にもうまくいっているクロアチア。望外に良好な路面状況に驚きながら、カルロヴァッツの南にあるキャンプ場まで走りました。
翌日には早くもボスニア・ヘルツェゴヴィナ国境へ向けて走り出します。この日走ったまさにその地域はかつてセルビア人が多数派を占めた場所で、内戦最末期の1995年にクロアチア軍によって実施された「嵐」作戦によって、地域からセルビア人勢力が一掃されました。これは私の先入観による思い込みかもしれませんが、確かにボスニア・ヘルツェゴヴィナ国境に近づくにつれ民家の廃墟が目立つように思われました。
路傍の看板までもが物語るボスニア・ヘルツェゴヴィナ
こうして至ったボスニア・ヘルツェゴヴィナ国境を越えると、そこはもうヴェリカ・クラドゥシャという町でした。長らくキリスト教圏のヨーロッパを旅し続けてきた私には驚くべきことだったのですが、ボシュニャク人と呼ばれるムスリムの人々は非常に気さくに私に話しかけてきて、助けてくれようとします。それまでの国では基本的に向こうから話しかけてくる人に対してはある程度警戒する必要があったのですが、ここでは私が通りで自転車を押しながら歩いているだけでも、人々が話しかけてきて何か困ったことはないかと気を使ってくれます。実は前日にクロアチアで明らかな詐欺師に絡まれて嫌な思いをしていたので(クロアチアの名誉の為に付記しますと、彼は別の国籍を自称していましたし、少なくともヨーロッパ人には見えませんでした)、ボスニアに入ってすぐの人々のやさしさの洗礼には救われました。
早速現地の方のお勧めするレストランで昼食をとりましたが、店を出るとその彼が待っていて、友人のやっているジェラート屋があるからそこへ行こうと声をかけてきます。これがパリや今いるイスタンブールだったら絶対に付いて行きませんでしたが、信用できる人だと踏んでいたので付いて行きましたところ、言葉通りお店でジェラートをごちそうになる形になりました。店主の方は二度日本に渡航したことがあり、いかに素晴らしい場所だったかということを熱弁してくださり、一日本人として大変嬉しく感じました。私を誘ってくれた方はというと、内戦前の町の人口はムスリムとセルビア人で半分半分であったが今は殆どがムスリムで人口自体も半減したこと、かつてこの町に嫁いできた日本人女性がいたが夫が二人の子供を残して内戦で戦死したことを話してくださいました。強く心を揺さぶられながらもヴェリカ・クラドゥシャを発ってからは、峠を越えてツァジンという町まで走ったのですが、この町でもまた、休憩で立ち寄ったレストランで隣の机の方々に招かれる形で羊の丸焼きなどをごちそうになりました。彼らは30代でしたが、やはり会話をしていると「戦争の頃は」という話題に一度は触れることになります。素晴らしい人々のやさしさと、どんな時でも顔をのぞかせる内戦の痕跡。初日にして、今思えばボスニア・ヘルツェゴヴィナの全てを詰め込んだような体験だったと思います。
結局この日はツァジンから断崖絶壁の谷の下をボサンスカ・クルパという町まで走り、そこに宿泊しました。ただ、バルカンらしく山の多い道だったこともあり翌日起きられず、想定外にボスニアの小さな町に二泊することとなりました。着いたときは何もない町だと思っていたのですが、歩き回ってみるとこれが意外にも、透き通ったウナ川の水に川辺の丘の上に立つ古い要塞となかなか見どころがあります。後々にサラエヴォでボスニア人と話した時に「ボサンスカ・クルパに行った」と言ったところ非常に良い反応が返ってきたので、どうもボスニア国内では人気のある場所のようです。
一日の休養の後ボサンスカ・クルパを発ってからは一気にバニャ・ルカの街まで。バルカンの山がちな地形では頭を使って川沿いを走らなければ消耗が大きいと気づいたので、遠回りですが川沿いで殆ど平地な道を選びました。さてボスニア・ヘルツェゴヴィナという国家は連邦制国家で、ボシュニャク人とクロアチア人からなるボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦と、セルビア人によるスルプスカ共和国の二つの主体によって成り立っています。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦が主権国家たるボスニア・ヘルツェゴヴィナを構成しているというのは、ふつう逆じゃないかと思いますが、これで合っています。スルプスカ共和国については、ユーゴスラビアからの独立を争った内戦中にセルビア人によって樹立された事実上の国家で、内戦最末期の構図としてはこのスルプスカ共和国とボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦(当時はまだ存在していませんが)が争った形になります。しかしクロアチア内戦のような一方による決定的勝利というものが得られなかったため、スルプスカ共和国がこのように温存される形になりました。そしてこのバニャ・ルカの街は、スルプスカ共和国の事実上の首都とされています。いくつかの写真でお判りいただけるかと思いますが、ボスニア・ヘルツェゴヴィナにおける三民族の間での反目と憎しみ(といって差し支えないでしょう)はまだまだ根深く、とにかく私はスルプスカ共和国の内部でただの一度もボスニア・ヘルツェゴヴィナ国旗を見たことがありませんし、むしろセルビア国旗を数えきれないほど見ました。
翌日バニャ・ルカを出てからは30kmほど川をさかのぼりサラエヴォ方面へ走りましたが、およそ60kmに及ぶ山越えかつその間小さな村しかない道の入り口に昼過ぎに着く形になったため、これ以上進むことはできないと考えてコトル・ヴァロシュの町に宿泊。そして翌日その先の道に繰り出したのですが、奥に進むにつれて道が未舗装になり、更にそのまま進むと恐ろしく深い山を登る砂利道に化けてしまいました。道端の看板を見るにヒグマの生息地でもあったため、丸腰かつ予備食料もない状況では先に進むことができないと考え、この度初めての撤退を喫しました。そもそもあの道の状況を見るに、そこから30km先の村までちゃんとつながっているかも怪しいものです。ボスニアでは地図に載っているからといって走れる道とは限らないという教訓を得て、針路を変更。二日間に及ぶ遠回りを受け入れてテスリチの町まで走りました。
翌日も怪しい道は避けて、遠回り上等の精神でドヴォイを経由してゼニツァまで走行しました。この日の道は主要幹線道路だったのですが、山の中のトンネルだけ自転車通行禁止で、脇道はそれこそ熊でも出そうな殆ど獣道という場合があり、難儀しました。
翌日ゼニツァを出ようとすると、朝からの強めの雨でいきなりやる気が出ません。とはいえこの日でサラエヴォに至る位置でしたので、気合を入れて走行開始。この日は深い谷間の川沿いに走りましたが、主要道は自転車走行禁止だったので対岸の道路を走りました。この道路も地図上では日本でいうところの県道扱いでしっかり番号も振られていますが、この道路があるとき枝をかき分けながら進むとんでもない獣道に化けました。時折線路脇というよりは線路を歩く場面もあり、なにせ雨に打たれながらでしたのでこれには本当に参りました。あの道を抜けきった時の安堵感は今でも覚えています。
しかし不運は続くもので、オーストリアで買い直したばかりのスマホがまたしても雨で水没し、うんともすんとも言わなくなってしまいました。幸い町の入り口でしたので、いずれにせよスマホは二台持ちにしないと今後危険と考え、格安スマホを購入して急場をしのぎました。このスマホですが、もちろん最低限の用には足りるものの全ての動作が緩慢で、こういったものが殆ど流通していないだけ日本もまだ豊かな国だと考えさせられます。そして、スマホを買い直して町を出る頃にはさっきまでの大雨が嘘のように晴れ渡った空に、恨み言を言わずにはいられませんでした。とはいえ最後の気力を振り絞って、なんとかサラエヴォに至ることができました。
首都サラエヴォは歴史的にも重要な街で、オスマン帝国時代の町並みが残る旧市街は勿論、第一次世界大戦の発端となったオーストリア・ハンガリー帝国皇太子の暗殺事件が起きたことでも有名な街です。内戦時にはスルプスカ共和国によって包囲され、多大な犠牲を払った街でもあります。この街では、もちろん観光に一日、そして主力スマホの買い直しに一日の計二日を費やしました。またポルトガル以来4500kmの走行で限界に達していたタイヤの交換とホイールの振れ取りを自転車屋に依頼しましたが、後者を依頼した自転車屋では、店主の方が「戦後復興では随分日本に助けられたから」という理由で代金を半額にしてくださいました。なにかと批判されがちなODAをはじめとする国際支援ですが、特に発展途上国を自転車で旅行していると、このような形で人々の力になっていることを確かめられる瞬間があります。
二日間のサラエヴォ滞在ののちは、アルバニアの首都ティラナへ向けて走行を開始しました。これまでと変わらずひたすら山々が連なる道でしたが、もう慣れたもので宿泊地のフォーチャに至りました。さてこのフォーチャという山間の町ですが、現在の人口は殆どセルビア人が占めるスルプスカ共和国内の町です。実はこの町にも内戦前は一定のボシュニャク人が居住していたのですが、内戦中にこの町で起きた大規模な虐殺とそれに伴う移住によって、今では殆ど残っていません。今となっては、町中のアパートの外壁に正教会の聖職者や兵士などのセルビアナショナリズム的壁画が描かれ、町の中心には内戦中のこの町におけるセルビア人死者「だけ」を祈念していると思われる大きなモニュメントがあります。ボスニア紛争ではボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人の各勢力がそれぞれ敵対勢力に対して数々の戦争犯罪を行いました。いくらセルビア人による虐殺の規模が比較的大きかったからといってセルビア人だけが悪者というわけではないとは思いますが、少なくとも私はボシュニャク人の領域ではこれほどまでにあからさまなものは一度も見かけませんでした。
翌日はフォーチャを出てすぐの場所でフランス人カップルのサイクリストと遭遇、モンテネグロ国境まで一緒に走りました。
素晴らしい山々のモンテネグロ
モンテネグロ国境は、タラ川の深い渓谷に沿ってひかれています。つり橋を渡りモンテネグロに入国すると、渓谷を離れて本格的な登りが始まります。そうしてしばらく登っていくと別の渓谷の中腹あたりに出るのですが、なんといってもその景色が圧巻でした。断崖絶壁の深い谷にかかる橋は、高所恐怖症の私にはかなり辛いものがありましたが、しかし連続する山肌のトンネルや岩肌むき出しの崖はかつて走った台湾の太魯閣渓谷を想起させました。そのまま進んでいくと大きなダム湖に至り、その湖畔のこれまたトンネルが多い道を走るのですが、なんといってもこのトンネル群には電灯が全くありません。中には1kmを超す長さのものもある中、手彫りで真っ暗なトンネルを通過するのは心底嫌でした。わずかな自転車のライトの明かり以外一切光が入ってこないので、例えば足元は何も見えません。こうなると、人間は不思議な浮遊感を味わうことになります。また、自転車の音以外無音の世界になるので、まるで自分が死人になったかのような気分を味わえます。そんなトンネルを何度も走らされ、もう嫌だとなったところでプルジネの町に着きました。夕方に町ごと停電になるトラブルが起きましたが、夜には復旧したので無事にシャワーを浴びて就寝しました。
翌日はティラナまで最後の山越えの日。プルジネの町からさらに標高を上げていくと、前日の険しい山容から一転して、美しくも穏やかな山地に出ました。この日は景色も天気も素晴らしく、峠こそ三度越えましたが気分よく麓のニクシチの町まで走りました。
その翌日にニクシチを発って向かったのは、セルビア正教の聖地として有名なオストログ修道院です。この修道院は標高800mの崖を掘りこむ形で建設されており、そこに至る道は非常に険しくも景色が良いものになっています。私はというと、修道院の入り口までは自力で登ったのですが、その先の往復は客待ちのタクシーで済ませてしまいました。この頃にはもう、リュブリャナからひたすら続いた山道で膝をかなり痛めていたのです。
修道院自体も面白い場所で、特にこの修道院の開祖である聖人のミイラ化した遺体が安置されている部屋には、古い壁画が触れる距離の壁に残されており見応えがありました。モンテネグロ観光では、多くの人がアドリア海沿いのコトルやブドヴァに向かいますが、今回私が通った山側の道は、かなりお勧めできます。
この日は首都のポドゴリツァに投宿しましたが、本当に何もない場所でしたので特に書くこともありません。翌日にシュコダル湖沿いにアルバニア国境まで走り、短いモンテネグロ滞在も終わりを迎えました。
海鮮に心を救われたアルバニア
アルバニアに至るまでひたすら山を走ってきたので気づいていませんでしたが、七月の上旬のこの地域はもう猛暑です。運悪く南欧全域が熱波に襲われていたこともあり、さっそく身を灼かれるような日差しに耐えながらの走行となりました。アルバニアに入って最初に出迎えたのは、アルバニア名物とでもいうべきコンクリートトーチカでした。アルバニアはスラブ人国家ではないので、「南スラブ人国家」であるところのユーゴスラビアの構成国ではなかったのですが、それでも例にもれず社会主義国家ではありました。ただアルバニアの独裁者、エンヴェル・ホッジャが独特な人物で、スターリン死後のフルシチョフによるスターリン批判を契機にソ連と断交、その後は毛沢東主義に傾倒するも、毛沢東死後の中国共産党の路線変更を契機に中国とすら関係が悪化。最終的には20世紀も後半になってから鎖国に至るという奇妙な歴史をたどりました。その際に周辺国からの攻撃を恐れたホッジャは国中にトーチカやシェルターを建てまくりましたが、そのうちの一つが今回私を出迎えてくれたわけです。
民主化後のアルバニアもまた、ねずみ講が大流行し大混乱に陥るなどエピソードに事欠かない国ですが、今では隣国モンテネグロと同様に観光に力を入れています。とはいえ私が初日に泊まったシュコダル、そして次の日に着いた首都のティラナ共に、都市部の観光名所は皆無に等しかったですが、それが休養にちょうどいいのはリュブリャナの項で書いた通りです。また、アルバニアはアドリア海に面しており歴史的にイタリアの影響が強かったこともあり、イタリア料理を中心に海産物を低廉な価格で味わうことができます。考えてみれば、パリを発ってからというものひたすら内陸を走り続け、食事はいつも肉と小麦か芋、たまに食べる魚は味の薄い川の鱒でした。アルバニアで初めて食べたヨーロッパアカザエビのリングイネはそういった背景もあり、恐ろしく美味でした。ティラナでは二日休養を取り、ギリシャのテッサロニキまで最後の走行と山越えに備えました。
ティラナを出た日はリブラジドの町まで走りましたが、途中エルバサンの手前の峠越えが恐ろしく辛かったのを覚えています。この日も気温は37度に至り、確かに日本に比べて湿度は低いですが植生が薄いので殆ど日影がありません。そんな中をひたすら登ったものですから、軽い熱中症の症状になりました。なんとか誤魔化し誤魔化し宿まで漕いだものの、なんせ外国人が全く来ない田舎町に来てしまったので、夕食に外出するだけで通りすがりの高校生や子供からアジア人差別的な言動を浴びせられます。一人で食事をしていた時も10歳前後の子供たちの集団に取り囲まれ、質問攻めにあいました。彼らは一切不適切な言動をしませんでしたが、食事中くらい珍獣扱いを止めて一人にしてほしいと思ったものです。肉体的にも精神的にも疲れ果てた私は、冷房を聞かせた部屋のベッドにもぐりこみ泥のように眠りこけました。
翌日は北マケドニアのオフリドを目指して、再び酷暑の中の峠越えに挑みました。もちろんしんどかったですが、身体がある程度適応したのか前日よりは楽に登りきることができました。峠の頂上にある国境を越えて北マケドニアに入国し、アルバニアの旅を終えました。
夢のオフリド、北マケドニア
峠を越えて北マケドニアに入りますと、古代湖の一つオフリド湖のおかげか一気に涼しくなります。軽快に峠を降りしばらく走ると、歴史あるオフリドの街に到着です。オフリドは北マケドニア随一のリゾート地、観光地として非常に人気のある場所で、内陸の湖ながらその景観はまるで地中海のリゾートを思わせます。オフリド湖の水は透き通り、水温も適温と聞いた私はホステルで着替えて早速湖水浴に向かいました。暑い一日の終わりに涼しい湖へ飛び込む!あの快感は忘れられません。良くなかったことといえば、防水袋の中に水が入りスマホが三度目の水没故障に至ったことでしょうか。
この日は宿で夕食パーティーが開かれたこともあり、たくさんの人と交流を深めることができました。深夜まで飲み会が続いたのでもちろん翌日の朝が遅くなりましたが、この日も走らなければならないため、足早に残りの観光を終えてビトラへ向かって走り出しました。
ビトラへは二度の峠越えがあり、時間が押していたこともあってなかなか大変でしたが、無事18時ごろに到着しました。とはいえ宿の前で早速男児二人組に差別的な言動を投げかけられ、すっかり宿の外に出たくなくなってしまった私は、夕食に出るのも一苦労。そして外へ出たら出たで案の定また別の男児二人組にからかわれ、かなり本気で凹みました。翌朝町を出ようと通りを走っていると、そこでも二度ほど男児の集団に絡まれました。アルバニアと北マケドニアの田舎町では、男児が二人以上でいた時にアジア人に対して何か言ってくる確率は私の体感では七割程度です。これは異常な数字といっていいでしょう。実際のところスルプスカとモンテネグロでも数は少ないですが同じ経験があります。唯一の救いといえば、大人にやられたことは一度もないので、あの子供たちもきっとどこかでそれは良くないことだと学ぶのでしょう。時折高校生や大学生にもなって絡んでくる男がいますが、子供相手ではないのでそんな時は私も食って掛かります。そうすると彼らはいつも、まさか反撃されると思っていないのか困惑しながら立ち去ります。私は、そこでさらに私に食って掛かる程度の覚悟もなく気軽に差別的な言動を吐く彼らの考えに、むしろ腹が立つのです。
さてビトラの南には、古代遺跡があります。かつてのマケドニア王国から初期のビザンツ帝国期にかけての遺跡だそうで、要はギリシャ人による遺跡です。北マケドニアは後にバルカンにやってきたスラブ人の国ですが、国旗の意匠や「マケドニア」を名乗る点などギリシャ人から見た時に歴史の盗用と映ることをよくやります。首都スコピエにはアレクサンドロス大王の銅像などもあるようですが、こういった一連の行動の積み重ねでギリシャと北マケドニアの関係は険悪です。国名がギリシャからの再三の要請によって「マケドニア」から「北マケドニア」に変更されたのもここ数年の話です。これらのことに対しては、私も北マケドニアにいる間は「北マケドニアもこういうことはやめておけばいいのに」程度の考えでしたが、次にギリシャの中央マケドニア地方に入ると、ギリシャ人の気持ちが随分わかるようになってきました。とにかく、遺跡を出てしばらく南に走りギリシャ国境へ到達、短い北マケドニアの旅も終わりました。同時に、長い旧ユーゴスラビアの旅も終わりを迎えました。
文・写真 森本 太郎