タロイモの七転八起大陸自転車横断記#03 スペイン編
ポルトガルのVilar Formosoより4月15日にスペインへ入国し、まずはマドリードで待つ伯母の元へ走りました。山岳地帯を越えスペインに入り、大きく変化した地形や気候に驚きながら、サラマンカからアヴィラを経てマドリードへ。しばらくの休憩をはさみつつ、その後は高校の同級生が待つパンプローナへ。イベリア高原を降り、再び緑豊かな土地へ戻ればフランスはもう目前。最後にバスク地方を満喫しながら5月4日にフランスへ入国するまでの記録です。
まったいらな大地!国境からサラマンカを経てアヴィラへ
4月15日の正午過ぎに国境を越えてスペインへ入国しましたが、まず驚いたのは地形の変化です。それまでのポルトガル側では起伏に富んだ地形かつ湿潤な気候だったのですが、スペイン国境付近からは平坦な地形かつ非常に乾燥した気候になりました。また、そのような地形ゆえか、スペインのこの地域の都市は大平原の中にポツンとあるようなかたちで点在しています。日本のように都市とその外側の境界が曖昧ということはなく、非常にはっきりと都市と平原が分けられているのは新鮮でした。
さて、その平原がどのように利用されているかというと、どこまで行っても牧草地です。また驚異的なことに、国道脇の牧草地は柵で囲われており、それが国境からマドリードの手前まで途切れることなく300km以上続いています。スペインは全体的に乾燥しているため、後に訪れることになる北方を除いて川らしい川はほとんどありません。道路脇に河川の存在を示す看板があっても、早くも四月には干上がっていますし、そもそも水が流れていたとしても用水路程度の様子です。スペイン人は全体的に節水の意識が非常に高いのですが、それもそうだろうと思わせる景色でした。
15日には大平原の只中にある国道沿いのホテルレストランに宿泊しました。翌16日はサラマンカを経由してその先へ向かうつもりだったのですが、あいにくの強い向かい風に阻まれサラマンカへ投宿することとしました。とはいえサラマンカは非常に美しい街で、就寝前に二時間ほど歩き回っただけではありますが今でも記憶に残っています。
翌17日はサラマンカからアヴィラへ、いつもの大平原(しかし実際には無数の小さな丘の繰り返しで、日本人が考える平地とは隔たりがあります)をひた走りました。アヴィラはサラマンカに比べるとやや小さい街でしたが、同様に街並みが非常によく保存されており、特に旧市街を取り囲む城壁の遠景は壮観です。
体調管理に失敗、マドリードで休養
アヴィラに入った翌日目が覚めると、身体が凍えるように冷たく力も全く入りません。それまでの無理が祟って熱が出たようです。どうしても自力で走破したかったので無理やり準備を終えて走り出しましたが、結局町を出てすぐのところで道路脇に倒れこんでしまい、諦めざるを得ませんでした。幸い駅がすぐ近くにあったので列車に乗り、そしてこれもまた幸運ですが、伯母がマドリード近郊に居住しているのでその最寄り駅まで移動しました。
この一件は私にとって大きな教訓になりました。まず、体調を崩すと後始末が大変です。私は自分に「リスボンから東京まで自転車のみで一本の線をつなぐ(大陸から日本への移動を除く)」というルールを課しているので、後日この日走らなかったルートを走ることになり余計に一日かかりました。ほかにも、やはり一度体調を崩すとしばらく尾を引きますから、とにかく多少コストが増えても危ないと思ったら宿に泊まるなりすることで体調の維持を最優先とすることが大事だと痛感しました。
伯母の家には結局六日程滞在しましたが、その間にマドリードとセゴビアを観光したりYouTubeに投稿する動画の編集を始めたりなど盛りだくさんの休養となりました。セゴビアはローマ時代の水道橋に加えて、スペインを代表する城塞であるアル・カサルが存在するなど非常に見どころの多い街で、のちほど紹介するセゴビア名物の仔豚の丸焼きも含めて、ぜひ訪問していただきたい街です。
めくるめくスペイン美食の日々
これは一番多くの人が興味を抱かれる内容かもしれませんね。伯母の家に滞在中は色々なものをごちそうになりましたので、特に重要なものをこちらで紹介いたします。
まずはハモン・イベリコです。スペインといえばもちろん生ハムが有名ですが、一口に生ハムといっても色々な種類や等級があります。その中でも今回は、最上級のハモン・イベリコ(イベリコ豚のハム)を賞味することができました。スペインで一般に見かける生ハムとしては、ハモン・セラーノやプロシュート等があるのですが、イベリコ豚と呼ばれる黒豚から作った生ハムは特にハモン・イベリコと呼ばれます。その中でも、飼料によって育てられた固体か、飼料とドングリを半々で食べて育った個体か、ドングリのみを食べて育った個体かという区別があり、ドングリの比率が上がるにつれて高級なものとされています。今回賞味したのはドングリのみで飼育された個体から作られたハムで、すなわち最高級品です。
残念ながら写真がないのですが、ハモン・イベリコは全体的に、熟成期間の長さも関係しているのかと思いますが、色が濃くなっています。それに伴うように味も非常に濃く、非常に強いコクと旨味があります。まるで和牛のように全体に脂がさしていますが、それがしつこくなく生のままですがさらりととけるような感覚があります。ほかの場所でも半ばブラインドテストのような形でハモン・イベリコが出てきたことがあるのですが、食べてみるとすぐに「これはハモン・イベリコではないか?」と疑うほどほかの生ハムと比べて個性が際立っています。
しかしスペインといえば第一に想起されるのがパエリアでしょう。その中でも、一番に浮かんでくるのは甲殻類とムール貝が盛り付けられた海鮮系のものかと思います。しかし実際には、本来のパエリアとはバレンシア地方の農民がオレンジの木を薪にしてそこらへんの山の幸、特にウサギとインゲン豆を米と炊いて作るものであるということで、スペイン人の義伯父がそのまさに本式のバレンシア式パエリアを大鍋で調理してくれました。
まずは肉類を焼き上げ、次に野菜、そしてスープ。最後に米を入れた後は炊き上がるまで決してかき混ぜません。そうして出来上がったパエリアは、特にトマトの酸味と旨味が絶妙な逸品でした。義伯父は米の炊き具合がだいぶ堅かったと後々まで気にしていたようですが、それでも間違いなく非常に幸せなパエリアでした。残念ながら、こちらも写真がありません。
やや閑話休題になりますが、マドリードでは有名な観光スポットのサン・ミゲル市場も訪れました。こちらはスペインの一大観光地で、特にタパスと呼ばれる小さなおつまみをたくさん食べてお酒を飲むスペインのバルのスタイルを楽しめるということで人気の場所なのですが、私はむしろタパスとピンチョス(バゲットの上などにタパスと同様のものを乗せたおつまみ)の本場たるバスク方面へ行く予定が立っていたので、ここでは生ガキを賞味しました。もちろん美味だったのですが、日本の方が随分水準が高かったということを申し添えておきます。
さて、ハイライトとなるのはセゴビア名物の仔豚の丸焼きです。こちらは幸い写真があります。伯母曰く、スペイン人は仔牛や仔豚、さらにはソラマメに至るまで生まれたてのものを好むとのことで、その一つの象徴がこの仔豚の丸焼きになります。まだ乳飲み子の仔豚をそのままグリルで焼き上げた豪快な料理ですが、完璧にパリパリに焼き上げられた皮とその下のクセのない柔らかな肉が素晴らしい対比を成しています。
この店では供された丸焼きをいたって普通の丸皿で切り分けるのですが、これにはまだ骨が柔らかい乳飲み子であることと、皿で切れるほど皮がパリパリに焼きあがっていることという二つのことの証明という意味があるそうです。
一路パンプローナへ
飽食のマドリード滞在を終え、次の目的地パンプローナへ走り始めたのは4月25日のことでした。ポルトガル国境からマドリードの手前までは自転車にとって走りやすい道が続いたのですが、それはマドリードを境に終わりを迎えます。マドリードから先、高速道路はよく整備されているが自転車が走行可能な道はろくに整備されていない、という状況に直面することが非常に多くなりました。ひどい場合では、迂回路も存在しない平原の真ん中でそれまで走行してきた高速道路の側道が唐突に消滅し、次の側道まで迷路のようなあぜ道をたどるということもありました。実際あまりにも道路の整備状況がひどいので、当初予定していたサラゴサの経由を断念し、マドリードから直接パンプローナを目指すこととしました。
高速道路が概ね無料であるがゆえに、このようにそれ以外の道路がロクに整備されないということになるのでしょうが、これは自転車にとっては大問題です。大都市間は基本高速道路があるので、その分下道が寸断されることが多くなり、自転車にとっては走りづらくなります。これは現在走っているフランスでも同様なので、正直なところヨーロッパは自転車旅行をしづらいのではないかと思い始めています。これまで日本以外では台湾、カザフスタン、キルギス、ウズベキスタンを走行したことがありますが、いずれの国も下道でA地点からB地点へスムーズに移動できるよう道路が整備されていたため、特に不満は感じませんでした。今のところヨーロッパでは路肩も非常に狭いことが多く、難儀しています。
とはいえ、やむを得ず田舎道を走っていればそれはそれでいいこともあります。マドリードからパンプローナへは多くの小さな町を通過しましたが、その中でもシグエンサは古い町並みが大変よく残っており、訪問した甲斐がありました。
バスクを旅する
ところで、パンプローナはまたの名をイルーニャといいます。パンプローナ自体はナバラ州に位置していますが、歴史的にはいわゆるバスクに属しており、イルーニャとはパンプローナのバスク語での名称であるわけです。同様に、近隣の地域はスペイン語名とバスク語名の両方を持つものが多く、パンプローナの次に訪れたサン・セバスティアンはバスク語ではドノスティアといいます。
一応これくらいの知識は私も到着前に調べていたのですが、さて実際にパンプローナ近郊に至りあちこちでバスク語の表記を見かけるようになると、バスク語があまりにもスペイン語からかけ離れていることに気づきました。みたところあまりにも文法と単語が違うので、言語学上の語族からして異なるのかと思ったのですが、まさにその通りでバスク語は印欧語族に囲まれた孤立言語という、非常に興味深い言語であるのです。
地形や気候の面では、それまでのスペインは非常に乾燥した場所が殆どで、起伏は多いながら山というより丘陵の連続といった形でしたが、このあたりに至ると非常に緑豊かな山岳地帯という趣になります。このように、言語も風景も大きく変わったので、まるで国境を越えたかのような印象を受けました。もっとも、バスク地方では伝統的に独立運動が盛んで、実際に国境を引こうという動きが存在しています。
さてパンプローナには4月29日から5月2日まで滞在し、現地に留学中の高校の同級生と一緒にタパスとピンチョスを大いに愉しみました。これらは近年日本でも人気になりつつあるいわゆるスペイン風のおつまみで、現地のバルではずらっと並んだタパス/ピンチョスの中からいくつかを選んでお酒を飲みます。日本の居酒屋文化に近いものがあり、大変気に入りました。とはいえ、一軒のバルが提供するのは大抵十種類かそこらです。
パンプローナを離れた後は、ピレネー山脈の西の端を越えてサン・セバスティアンを目指しました。ピレネーといっても、ここまで来ると越えるのに大した苦労はなく、むしろ山間の景色を丁度良く楽しんだ良い行程となりました。サン・セバスティアンの街は江の島のような陸繋島が外海の波を遮る穏やかな湾の内側に位置し、まさに理想的なリゾート地の趣です。その日は非常に暑かったこともあり、目の前の青い海に惹かれた私はサン・セバスティアンに投宿することとしました。うまいこと安宿が見つかったので、荷物を置いて水着に着替えて海へ。水温はさすがにまだ低かったですが、ひと泳ぎをした後は日が暮れるまで日光浴を楽しみました。宿で仲良くなったサンチャゴ・デ・コンポステーラ巡礼の二人組(巡礼者はエル・カミーノと呼ばれるそうです)と共に夜は再びバルへ。一通りタパスとピンチョスを楽しんで宿に帰りました。サン・セバスティアンはスペイン一の美食の街として有名なようで、実際にその看板は嘘でないと思いましたが、一方であまりにも観光地化されており、生のバルの雰囲気、注文にすら苦労するあの混沌を体験するという意味ではむしろパンプローナの方がよいと思います。
翌日の5月4日、サン・セバスティアンから20kmほど北方のイルンという町から国境を越えてフランスへ入国し、約二十日間のスペインの旅はついに終わりを迎えました。
文・写真 森本 太郎