タロイモの七転八起大陸自転車横断記#05 ドイツ・オーストリア編
前回のフランスから、五月末にライン川を越えてドイツに入りました。ドイツでは主に南部を短期間走行したのみで、その後すぐにオーストリアへ入りました。この二か国は言語、文化共に基本的には同じなので、二か国をまとめて一つの記事にさせていただきます。
サイクリストにやさしい国、ドイツを走る
ライン川を越えてドイツに入ったのは5月31日のこと、ストラスブール北方の国境でした。とはいえ、ここも例にもれず自由通過の国境で、それらしいものといえば独仏友好のモニュメントぐらいです。パナマ運河のように両側で水位差がある閘門の上を走り、無事ドイツの地に上陸しました。ドイツに入ってまず驚いたことは、その現金社会っぷりです。ポルトガルで旅を始めてからというもの、ドイツに入るまでは殆どの買い物をクレジットカードで支払っていたのですが、ドイツに入って最初のジェラート屋で早速現金での支払いを求められました。当時殆ど現金を持っていなかったのでこれには面喰いましたが、手持ちの小銭で何とか支払い、すぐにキャッシングに向かいました。
さて休憩を終えてその日の宿泊地、バーデン・バーデンの街に向かって走り始めますと、どうも道路脇に自転車専用道が常に整備されていることに気が付きます。もちろん少し遠回りになるようなことはありますが、自転車に恐ろしく冷たい国、フランスから来た後の自分には感動的でした。もちろんフランスにも自転車レーンがあるにはあるのですが、意味不明なところで唐突に途切れたり、そもそも街中以外ではまずもって整備されていないので、田舎道でも基本的にずっと自転車専用レーンが整備されているドイツとは比べるべくもありません。フランスの都市間道路ではほかのサイクリストを見かけることは稀でしたが、ドイツではこういった基盤の整備もあってか、主に電動自転車を中心にサイクリングを楽しむ人々を非常に頻繁に見かけました。
こうして快適にバーデン・バーデンを目指して走っていたのですが、ここでトラブルが起きます。ちょっとした峠道を走行中のある時点から、後部変速機の調子がおかしいとは感じていたのですが、ある時ぐらついた変速機を車輪が巻き込んでしまい、走行不能になってしまいました。とはいえペダルを踏まない滑走は可能だったこと、殆ど峠の頂上に差し掛かっており、あとは降るだけでバーデン・バーデンに到着する状況だったこともあり、それほど焦らずに自転車を押して峠を登りきり、滑走して宿に着くことができました。バーデン・バーデンは温泉の街。長らくシャワー以外を浴びていない体を癒したく、ちょうど温泉の終業時間が迫っていたこともあり、一旦自転車のことは考えずに浴場へ向かいました。
さてドイツにおける浴場ですが、サウナが基本でそれに付随して場所によってはぬるい温水プールが併設されている程度ですので、日本人が好むような40度前後の温浴というのはできません。また、全裸での男女混浴が基本なのでこの点も人を選ぶかと思います。とはいえ、久しぶりにシャワー以外を浴びてかなり生き返ることができました。
翌日になり、まずはバスと電車を乗り継いで40kmほど北にあるカールスルーエの街に移動し、自転車の修理を自転車屋に依頼しました。こういったことが非常にスムーズに進むのは先進国、特にサイクリング大国のドイツだからこそだと思いますが、後部変速機の破損というかなり致命的な事態がどこか辺境の地で起きたらと思うと、背筋に冷たいものを感じます。数時間ののち無事に自転車が修理されましたが、この日はもう走るには遅すぎるのでカールスルーエに宿泊し、翌日電車で前回の中断地点まで戻り、再度シュトゥットガルトまで走りました。
シュトゥットガルトへの道すがらでは、有名な黒い森(シュバルツバルト)を通過したのですが、山だらけの日本出身者からすると特に特筆する点のない森です。むしろ緩やかな丘陵に広がる畑こそがドイツらしい風景で、私は好きでした。シュトゥットガルトでの宿泊は19ユーロのドミトリーでした。正直なところ若干、魑魅魍魎(ちみもうりょう)の宿といった趣がありましたが、フランスから一気に宿代が下がり大いに助かりました。ドイツは食事含め比較的物価が低く、フランスに比べると旅をしやすい国です。他方、一人当たり所得はドイツの方がフランスより随分高いので、やはり物価というものには色々な背景が大きく影響していると言えるでしょう。
翌日はシュトゥットガルトからウルムへの走行日。特に特筆すべきことのない日でしたが、楽しかったのはその翌日のウルムからアウクスブルクへの走行日。この日は途中にあるギュンツブルグという美しい小さな町に昼食のため立ち寄ったのですが、周囲のサイクリスト達が皆、昼間だというのにギュンツブルガーという当地の地ビールを飲みながら食事をしています。私もその場でさっとドイツの法律を調べ、グラス一杯程度ならまずもって法律で規定されている血中濃度には達さないことを確認し、ギュンツブルガーのヴァイスビア(白ビール)を注文しました(法律の問題とは別に、個人の耐性もあるので、自分は危ないかも?と思われる方は宿泊場所に着いてから楽しく一杯やりましょう!)。暑い日にひとっ走りしてから飲む、本場のヴァイスビア。まさに天にも昇るような心地でした。ちなみに、ドイツの多くのレストランでは水以外で一番安い飲み物が当地のビールであることが殆どです。これはなるべく節約をしたい私との相性が最高であったことは言うまでもありません。
その翌日はアウクスブルクからミュンヘンへ走行。途中ダッハウという、どこかで聞いたことのある名前の街の近くを通り過ぎましたが、この段階では何だったのか思い出せず、そのままミュンヘン在住の大学自転車部同期の自宅にたどり着きました。
ミュンヘン滞在、そしてプラハへの鉄道旅
こうしてミュンヘンに到着しましたが、ミュンヘンでは観光というより概ね動画編集などの作業に時間を費やす形となりました。とはいってもその合間に他の留学生との交流があったり、もちろんビアホールへ赴いたりと楽しい滞在となりました。ミュンヘンのビアホールといえば中心部のマリエン広場近くにあるホフブロイハウスが有名ですが、実はこの場所はかつてヒトラーがナチ党の結党大会を開いた場所。それを思い出した時、ミュンヘン近郊のダッハウはかの悪名高いダッハウ強制収容所の所在地であるということも思い出しました。ダッハウ強制収容所はナチスが開設した強制収容所の中でも最も古いもので、それはやはりこのドイツ南部、バイエルンこそがナチス発祥の地であるからです。現在でもバイエルンはドイツで最も保守的な地域であり、特に何かがあったというわけではないもののなんとなく気が塞ぎ込んだ私は、鉄道のチケットを購入してチェコの首都、プラハに向かいました。
ミュンヘン中央駅からプラハ中央駅までは五時間ほどの鉄道旅で、チェコ鉄道とドイツ鉄道の共同運行で直通列車が運行されています。海外鉄道旅行では都市圏を離れるとすぐにインターネット接続がなくなるのですが、今回もその例にもれず大変退屈でした。毎日自転車で嫌というほど景色を見ているので、こういう時は車窓になかなか目が行きません。動画編集などをして時間を潰し、パソコンの充電も尽きかけたあたりでちょうどプラハに到着しました。
プラハはその歴史と美しい町並みで知られる街です。この街の街並みは圧巻というほかなく、特にカレル橋を中心とした一帯は数百年前の姿を全くそのまま保っています。また、市街の中心を流れるブルタバ川を中心に、周囲を丘陵に囲まれる盆地に街が位置しているので、川から周囲を見上げても、逆に丘の上から街を見下ろしても素晴らしい眺望が得られます。今私はヨーロッパでの走行を終え、イスタンブールでこの記事を書いていますが、プラハの街は私が訪れたヨーロッパの街の中では断トツで最も美しいです。路上のゴミも少なく治安も非常によく感じられましたので、どなたにでも旅行先としてお勧めできる場所です。
さてチェコといえばビールです。もちろんドイツもビール王国ですが、現在最も世界中で親しまれているビール、ピルスナーはチェコのピルゼンという町で生まれました。チェコの一人当たりビール消費量は世界一で、とにかくチェコ人はチェコのビールに強い自負を持っています。ビール一杯の値段はただでさえ安かったドイツよりさらに安くなり、日本円にして200円程度ということも珍しくありません。料理はドイツのものにかなり近く、肉とジャガイモの組み合わせが基本になります。ドイツ同様に一品一品は美味しいのですが、いかんせん基本的に同じ味のものばかりで、プラハではどのレストランに行ってもメニューがほとんど同じ十種類程度の料理で埋められていたように思います。短期滞在の方であれば問題はないかと思いますが、似た食文化のドイツも含めると既に十日ほど同じようなものを食べ続けていた私にはやや厳しいものがありました。
二泊三日のプラハ滞在後、再び列車でミュンヘンに戻った後は、その後に控えるアルプス越えに向けて自転車を整備し、残った動画編集を済ませてからミュンヘンを発ちました。この日も休憩がてらの昼食とビールを楽しんでから、ローゼンハイム近郊のキャンプ場に至りました。ミュンヘンを出てこれぐらいまで南下すると、眼前にはアルプスが聳え立っています。それまでの旅では見たことのないホンモノの山に興奮を抱かずにはいられませんでした。
翌日、オーストリア入国の前にまずはローゼンハイムの南にあるラウブリングの街へ向かいました。実はこの街には、私の愛車を製造したCORRATECの本社があるのです。事前に訪問を希望するメールを二通送っていましたが返事がなく、アポなし訪問という形になってしまいましたが、とはいえ本社見学と工場見学という形で温かく受け入れていただきました。愛車と共に生まれ故郷を訪問することができ今後の旅への覚悟が深まるとともに、併設のバイクショップで大特価のチームジャージを購入することもできて大変楽しい訪問でした。実は家にもう一台同社製のロードバイクを保有しているので、これで私も立派なCORRATEC党員かと思います。その後は少し走ってオーストリア国境に至り、ドイツでの走行を終えました。
息をのむ絶景、アルプス越えのオーストリア
ドイツとオーストリアの国境もこれまた存在感が全くないものでした。さらに、言語的、文化的には両国とも基本的に同一なため、いよいよ国境を越えたことを実感させるものがありません。気づいたことといえば、オーストリアの方が全体的に若干物価が高いことぐらいではないでしょうか。いよいよ険しさを増す山々の中へと突き進んでゆきます。
小さな峠を越えて山脈と山脈の間の谷間に降り立つと、六月の半ばでも雪を戴く山々が立ち並び、これまでからがらりと変わった景色に胸が高鳴ります。そのような道を二日かけて走り、美しい湖ツェル・アム・ゼーを少し越えたところにある小さな村に宿泊して、翌日のアルプス越え本番に備えました。
今回のアルプス越えで走行したのは、グロースグロックナー山岳道路です。オーストリア最高峰のグロースグロックナー峰の脇を通り抜ける道で、最高標高は2,504mにも達します。とはいえ、世界にはここよりも遥かに標高が高い道路が無数にあり、私自身キルギスで砂利道を50km上った末の標高3,447mの経験があります。しかし今回の道はそれに匹敵するだけのしんどさがありました。というのも、これはどうもオーストリアの山道に共通する点らしいのですが、斜面の急さ、自転車の言葉でいえば斜度が非常に急なのです。今回のグロースグロックナー山岳道路は、私が上った北側からのアプローチでは標高差1300mを僅か10km強で登り切ります。平均斜度に直すとこれは12%強にもなり、後にも先にも私はこれほどまでに急な峠を知りません。日本でも瞬間的に斜度10%が連続する場所はあるのですが、12%強の斜度が10km以上続く場所というのは聞いたことがありません。この坂道は私にとってもギリギリ押さずに漕げるくらいのもので、数百メートルおきに立ち止まって休憩を無数に繰り返しながら、五時間ほどかけて何とか頂上にまで至りました。荷物の一切ない軽量なロードバイクでも私だと何度も休憩が必要になる道でしたが、なにせ荷物を満載した自転車でしたので、我ながらよく最後まで諦めなかったものだと思います。
そのように過酷な行程に追い打ちをかけるように、標高を上げるにつれて天候は不安定になっていき、最初は雨、最後には視界が制限されるような雪に見舞われました。最後に頂上に辿り着いたころには体温も下がり切り、足早に撮影を終えてすぐに下り始めたのですが、下りの寒さで手の感覚が無くなり体も震えが止まらなくなったので、途中のホテルに助けを求めて、しばらく暖を取らせていただきました。三十分ほど体を温めて窮地を脱したところで再度降下を始め、ハイリゲンブルートの町のペンションに到着しました。
このアルプス越え、それまでのヨーロッパのぬるま湯のような走行が嘘のように過酷でしたが、なんといっても景色が筆舌に尽くしがたい美しさでしたので最後まで諦めずに走り切ることができました。筆舌に尽くしがたいので、ここで長々と感想を書き連ねることはせず、写真だけを残させていただきます。
とはいえ、極端な上り坂が膝に与えたダメージと、不幸にも頂上での降雪で故障してしまったスマホの買い替えに関してはその後もしばらく苦労させられました。
アルプス越えの翌日はもう一度小さな峠を越えてまた別の谷筋へ。その谷筋を二日かけて降り続け、フィラハの街からスロヴェニアへの最後の山越えに挑みましたが、この最後の峠もまた強烈な斜度で、最も極端な場所では1kmで200m登らせる(斜度20%)という信じがたい坂に化けました。ちょうど夕食前の空腹なタイミングだったこともあり、いわゆるハンガーノックの状態になってしまいました。こうなると恐ろしいほど体に力が入らず、100mも進むと鼓動と呼吸がこれでもかというほど荒れ狂うのですが、とにかく気合で無理やり押し切って何とか峠の頂上へ。無事スロヴェニアへの国境を越え、オーストリアでの走行と、アルプス本体の山越えとそれに付随する数々の峠越えを終えました。
文・写真 森本 太郎