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「カメラを通して社会を学ぶ」真鶴カメラのローカルフォト活動

【わたしのまちとカメラ Vol.20 真鶴カメラ#002】

皆さま初めまして。松平直之と申します。大学を卒業後、映像作家として25年ちかく活動しています。20代までは大阪で育ち、30代で上京。そして40代を過ぎてから神奈川県の西の端、真鶴町に移り5年が経とうとしています。
2021年に、同じ町内に暮らす写真家の仁志しおりさんと「真鶴カメラ」というローカルフォト活動を始めました。

今回は、大都市圏に暮らしてきた僕が、なぜ人口7000人に満たない小さな半島に活動の場を移したのか。そして何を目指してこの町でローカルフォト活動を始めたのかを、書かせていただこうと思います。どうぞよろしくお願いします。

郊外育ちのわたし

1975年。僕は大手家電メーカーに勤める父と、専業主婦の母の間に一人っ子として産まれ、幼少期は北大阪にある「千里ニュータウン」で、80年代のバブル期には南大阪郊外の一軒家で育ちました(1975年は核家族世帯の割合がピークの年でした)。

 僕の育ったまちは神社仏閣がなく、地元の行事とも無縁でしたし、転勤族ゆえに親戚関係も希薄でした。また父親は僕の中学進学と同時に海外赴任で不在、といった家庭環境でしたが、当時は周りにも似たような家庭が多かったので、そんな環境に疑問を感じることもなく順調(?)に成長しました。
 
大学卒業後は、学生時代の友人と共にデザイン会社を立ち上げ、プログラマー、イベントプロデューサー、建築家、グラフィックデザイナーなど、様々な職能を持った仲間に囲まれて、主に音楽やファッション業界の広告映像をつくってきました。言語よりも感覚と瞬発力を活かしてつくる映像は、賞味期限が短い反面とても刺激的で面白く、より大きな仕事を目指して上京したのもその頃です。

小学3年生から中学生1年生までを過ごした「千里ニュータウン」

家族とニュータウンの終焉

そうして仕事に没頭していた頃、大阪の実家では、東南アジアの工場の管理職をしていた父が単身赴任を終えて2000年に帰国します。家電の花形だったテレビが売れなくなってきたからです。日本が世界に誇る製造業が、デジタル化による産業構造の変化によって衰退し始めた頃でした(この文章を書いている2023年2月現在、日本の電気機器は初の貿易赤字に転落しました)。
海外で家政婦や運転手付きの高級マンション暮らしを10年近くしてきた父が郊外の暮らしに馴染む筈もなく、結局両親は翌年に大阪の中心地にあるタワーマンションに引っ越しをします(90年代の中流家庭はそれでも裕福だった)が、急激に夫婦仲に溝が生じて、最終的には2003年に離婚をしてしまいました。
 
今あらためて当時の社会状況を振り返ると、1991年のバブル崩壊による地価の下落と規制緩和で1997年からタワーマンションの建設が急増し、2002年には離婚件数が過去最高を記録していました。また、かつて住んだ南大阪のまちは高齢化で寂れ、2010年には中心にあったスーパーが老人ホームに建て替わります。父の海外赴任の任期満了による家族の崩壊と、郊外の衰退が重なります。
 
人口増加期の経済成長を前提とした生活モデルが成り立たなくなり、仕事一辺倒だった父と、ひたすら家を守ってきた母には辛い時代だったでしょう。ふたりとも社会に求められた役割を一生懸命担ってきたはずです。離婚は双方の性格の不一致と決めつけていた当時の僕は果たして正しかったのでしょうか?
 
80年代に多くの若い夫婦が移り住んだ郊外住宅地は、全国的に高齢化が深刻化しています。タワーマンションにおいても、その存在が景観や地域コミュニティに悪影響を及ぼすことなど全く感知せず、当時の僕は高収入な仕事としてCM制作を請け負っていました。その後、父は再々婚をして疎遠になり、母は大阪で独り暮らし、僕は東京へと、家族3人はバラバラになってしまいました。

小学校1年生の時の絵日記。父親は仕事で不在が多く、中学校からは海外赴任に。

スマートフォンが変えたものと、カメラが変えられるもの

家庭の崩壊と実家の消滅に、一抹の寂しさや漂泊感はありましたが、僕はすでに家庭を持っていましたし、都心部で暮らすには、故郷や身寄りがなくても不足に感じることは何もありませんでした。都会的な映像表現を追求し海外ロケも増えたりと、仕事もますます充実していきましたが、そんな暮らしを大きく変える出来事が起こります。
 
国内でスマートフォンの普及が50%を超えた2015年。オンラインショップが実店舗の売上を凌駕し始めるとともに、サイト内のコンテンツを自社で制作するアパレル会社が増え、ファッションの仕事が減少し始めたのです。また、スマートフォンで視聴する映像コンテンツは増えましたが、小さな画面に対して大きな予算が付くこともなくなりました。(ちなみにスマートフォンの普及はカメラ業界にも多大な影響を与え、2015年時はカメラの出荷台数がピーク時の3分の1以下となりました)
 
それとは逆に増えてきた仕事が、地方自治体のPR映像でした。海外ロケは無くなりましたが、観光誘致、移住・定住促進、伝承文化の記録など、仕事の内容は多岐にわたり、日本の美しい自然、独自の郷土料理、伝統工芸、祭りなどの地域文化の豊かさに心を奪われました。元々映像の「記録」する特性に魅せられて始めた自分のキャリア。映像ディレクターからドキュメンタリー作家へと転向したいと思ったのは自然な流れだったのかもしれません。流行りを追って消費を促す映像ではなく、日本各地の風土や歴史に向き合い、より賞味期限の長い映像をつくりたいという気持ちが日増しに強くなったのです。
 
こうした地域の仕事は、2014年に第二次安倍政権が掲げた「地方創生」が源流でした。東京一極集中を是正し、地方の人口減少に歯止めをかけて地方活性を図る政策が、映像業界にも徐々に浸透してきたのです。

真鶴のまつり「貴船祭り」。写真は疫病退散と五穀豊穣を願う「鹿島踊り」

東京から真鶴へ

2016年、共通の知人を介して交流を深めていた写真家のMOTOKOさんに誘われて、神奈川県真鶴町の移住促進映像「真鶴半島イトナミ美術館」と滋賀県長浜市で400年以上続く「長浜曳山まつり」の記録映像制作に立て続けに参加したことが人生の転機となりました。世代を超えた人々が、祭りを通して生み出す強固なコミュニティ、古来から自然と人が織りなしてきた力強い営み、その土地にしかない唯一無二の文化。僕が今まで全く味わってこなかったものがそこにありました。
 
これまでは、価値のまだ生まれていないもの(商品などの広告は、実物が完成する前に納品することも多い)を、役者や映像の力で価値のあるものとして伝えることを求められてきましたが、地域の映像は、まるで宝探しのように、本来価値があるけれど、地元ではそれが当然ゆえに見えにくくなっている物事に光を当て、再びその価値を浮かび上がらせることが求められます。カメラを使って消費を促すのではなく、観た人に意識の変化と地域文化への参加を促す。難しいけれども、その面白さと必要性を知ったのです。
 
真鶴町での撮影は半年にわたり、ふと気づくと東京よりも知人、友人が増えていました。まちは人口減少という大きな課題を抱えていますが、その一方で多様な世代がつながるコミュニティや、漁業と石材業といった地場産業、幼少期に住んだ郊外にはなかった歴史深い祭りなど、いつしか真鶴の方が東京よりも魅力的に感じられるようになり、2018年に妻と子どもたち、家族5人で移り住むことにしました。
 
移住後は、都内の職場に通いながら2拠点生活を1年半ほど続けていましたが、2019年からのコロナ禍によるリモートワークでほぼ毎日を真鶴で暮らすことになり、自然に囲まれた土地での暮らしの豊かさを一層強く認識しました。
 
そんな中で2021年、同じ町内に暮らす写真家の仁志しおりさん(大阪時代からの友人でもあり、2019年に真鶴にご家族で越してこられました)と一緒に「真鶴カメラ」を立ち上げる運びとなりました。

明治10年から続く干物屋「魚伝」を取材した日。五代目とご家族を囲んで

カメラを通して社会を知る

「真鶴カメラ」は、カメラを通して僕たち自身が真鶴の価値に気づき、地域の方々や店舗への取材内容をSNS等で発信することで、地元をもっと好きになるきっかけをつくると共に、移住や関係人口、観光振興につなげることが目的です。
 
真鶴は2014年に神奈川県で初の「消滅可能性都市」に指定され、まちは深刻な人口減少と少子高齢化、産業の衰退といった課題に直面しています。自分たちが主体的に課題に向き合い、暮らしを守っていくにはどうすればよいでしょうか。そのためには健康診断のように、カメラを使ってまちの骨格を浮き彫りにし、現状を正確に把握することが大切であるように思います。そこでは目に映る風景を感覚的に撮るのではなく、その背景にある歴史や物語を知った上で、まちを見つめる社会的な視座が求められます。それは今までの被写体への向き合い方とは全く違う撮り方です。
 
これまでの僕は、目の前に起こっていることを表層的に捉えることは得意でしたが、その背景に想いを馳せながら撮ることはしてきませんでした。つまり「なぜ今この事象が起こっているのか」を考えずに撮影してきたのです。これまで広告で存在しえない世界を作ってきた思考が染み付いていたのでしょう。どこか他人事として、映画鑑賞のようにファインダーを覗いているような感覚から抜け出せなかったのです。この「現実を見つめる眼」を得るために、「真鶴カメラ」の活動を始めたのでした。

真鶴カメラの具体的実践のひとつ、地形を知る「まち歩き」
町内11ヶ所にある「道祖神」。外から来る疫病や悪霊から地域を守っている

自分の未来とつながる、まちの未来

地場産業や商店街への取材を続ける中で、興味深いことが見えてきました。真鶴町という静かな漁師町も、一見平和に見えますが、これまでの歴史は社会的な困難の連続でした。1980年代はリゾートマンションの建設ラッシュに抗い、条例「美の基準」によって住民の暮らしを守ったのも束の間、バブル崩壊以降は商店街が潰れて急速に市街地が荒廃。働き口を失った若者たちは都会へと出て行き、2005年からの10年間で人口は激減(8,714人→7,333人)します。そこに追い討ちをかけるようにデジタル化によるライフスタイルの変化で、買い物さえ手の中のスマートフォンでできる時代になりました。まちは人口減少に抗えず、経済も循環しなくなってしまったのです。

地場産業や商店街、自然や祭りなどを取材し、町の「事実」を知る

国の課題は人口減少を軸に、さまざまな要因が絡まり合って、まちの課題へとつながっています。両親と僕、たった3人の松平家であっても、確実に社会の出来事から大きな影響を受けていたのです。あの時、感覚で判断せずに社会背景を学び見つめることができていたなら、両親にこう言えたかもしれません。社会に翻弄されて辛かったね、と。
 
僕にこれから必要なのは、自分と社会をつなぐ「社会へのまなざし」。カメラを通して町の歴史や産業、商店街や祭りといった暮らしを見つめ、普段の日常で感じるちょっとした違和感の原因を調べて事実を知ること。事実を知って、自分に何ができるかを考えて発信、実践していくこと。
40代にして初めて見つけた故郷、この真鶴町での暮らしを、これからも末長く楽しんでいけるよう、引き続き「真鶴カメラ」の活動を通して、社会へのまなざしを鍛えていきたいと思います。

港でヨットハーバーを取材中の「真鶴カメラ」のメンバーたち

文・写真:松平直之

今回の取材で使ったカメラ・レンズ
Camera:
OM-D E-M1X
Lens:
M.ZUIKO DIGITAL ED 12-100mm F4.0 PRO
M.ZUIKO DIGITAL ED 17mm F1.2 PRO

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