地域写真という新たな地平
はじめに
ローカルフォトとその始まりの「小豆島カメラ」が今年で10周年ということで、OMデジタルソリューションズ(旧オリンパス)の菅野さんからテキストをお願いされて書いている。月並みだが、本当にあっという間の10年であった。
専門家から "百姓”へ。少し前まで一人に一つだけだったキャリアが、今やいくつも掛け持ちが可能になった。例えば「小豆島カメラ」メンバーのひとり、三村ひかりさんは農業に勤しむ傍らカフェ経営をし、来春から宿泊業も始める。そして彼女のような地方の人も、同時並行で複数の異なる仕事に従事する「パラレルな日常」を生きている。
人口減少と情報化
「小豆島カメラ」が始まった当時の背景には二つの課題があった。一つは人口減少および少子高齢化、もう一つは情報化(デジタル化)である。急速な人口減少と情報化、そして気候変動が国民に大きな痛みを与える変革期だったと記憶している。
なかでも少子高齢化は深刻化していた。地方のみならず都市圏や企業コミュニティ、メディアに至るまで広範囲に影響を及ぼすようになっていた。戦後に作られた社会制度やインフラが随所で綻び始め、現代のニーズに対応できなくなり、その結果、様々な分野で課題が浮き彫りになっている。これに対処するためには「新たなまなざし」を形成し、持続可能な社会構造を形成することが必要だった。
しかしその一方で、従来の都市文化とは異なる"新しい文化”が生まれようとしていた。その一つが、それまで中央から情報を受信するだけだった「地域の情報発信活動」である。SNSから発信される彼らの暮らしは、移住・定住など人々の生き方に影響を与えていった。
ローカルフォトとは
ここでローカルフォトについてご存じない方のために少し説明したい。ローカルフォトとは "写真によるまちづくり” 。地域住民が土地の暮らしを撮影してSNS等で発信することで、観光や移住につなげる活動のこと。カメラでまちの魅力を再発見し、シビックプライドを醸成する。総合的には、写真で人や暮らしを "見える化” することで、持続可能な地域を目指すものだ。
ローカルフォトのプロジェクトとして、2014年の香川県の「小豆島カメラ」を皮切りに、長崎県東彼杵町の「東彼杵探偵団」、滋賀県長浜市の「長浜ローカルフォトアカデミー(現在の長浜ローカルフォト)」、愛知県岡崎市の「岡崎カメラがっこう(現在の岡崎カメラ)」、そして現在進行中の青森県藤崎町の「ふじさきローカルフォトアカデミア」、神奈川県真鶴町の「真鶴カメラ」などがある。
ローカルフォトではないが、奈良県生駒市の「いこまち宣伝部」など親戚のような活動もある。このように ”カメラで地域を発信すること”は、少しずつ浸透してきた。
活動のきっかけは、東日本大震災を契機に日本が転換期を迎えたことだ。復興を巡って人口減少や少子高齢化などの課題が顕在化し、それに伴って国民の価値観が大きく変わった。その後2014年には安倍政権による「地方創生」が施行され、全国各地で地域活性化の取り組みが始まる。地域はそれまでの行政主導から民間主導へと移行。今後は若者文化やカルチャーの分野においても「まちづくり」は必須となるに違いない、と思った。
三村さんとの出会い
新しい時代の到来は、かつてない才能との出会いから始まる。三村ひかりさんや小豆島カメラのメンバー、真鶴出版の川口瞬さんや來住友美さんはまさにそんな人たちだった。
三村さんと知り合ったのは東日本大震災の1年後、Facebookのリクエストだった。後述する「田園ドリーム」の活動で、滋賀県の若手農家集団「コネファ」とのプロジェクトが 雑誌『ソトコト』に掲載され、それを見た彼女が連絡をくれたことから交流が始まった。
農家とカメラマン
ローカルフォト以前、わたしは「田園ドリーム」という個人活動をしていた。2006年に発足したこのプロジェクトでは、雑誌や広告などこれまでの東京の写真仕事からいったん離れ、地方でフィールドワークを開始。一次産業や行事など、昔ながらの暮らしをする人々の取材を続けていた。
地方へ向かった理由は、デジタル化により従来の仕事が急速になくなったからである。雑誌の廃刊が相次ぎ、音楽はCDから配信に変わり、ファッションは国産のDCブランドから中国産のファストファッションになった。さらに追い討ちをかけるようなSNSの台頭。YouTubeによる若者のテレビ離れをはじめ、メディアのデジタルシフトは産業構造を大きく変えていった。
模索を続ける中で、わたしは滋賀県の農家集団「コネファ」と出会い、活動を共にするようになった。彼らから聞いた、過疎による後継者不足や米の消費量低下問題。ここで気づいたのは、「地方の農家の担い手不足」と「都市のカメラマンの仕事の減少」という、一見異なって見える二つの事柄は、実は同じということだった。
文化の誕生
三村さんはわたしと知り合った当初名古屋に住んでいたが、その後しばらくして家族とともに小豆島に移住をした。そんなある日、Facebookの彼女の写真を見て驚いた。それは今まで見たことのない、まったく新しい写真だった。
個人的な所感だが、震災以前の「地方の写真」は、"地元住民による田舎の写真” か "都会から見た田舎の写真” のどちらかだったと思う。対して彼女の写真は "田舎に住む都会人の写真”。ポップでありながら社会的なまなざしを感じさせる写真に、新しい時代の到来を感じた。それは、今では当たり前となった「移住者による地域写真」の始まりだった。
さらに言えば、わたしが学生時代に憧れた音楽やファッションなどカルチャーの中心は常に東京であり、それらがテレビや雑誌を通じて発信されていた。青春の舞台は都市だった。それが今や地方からの発信も可能になっている。戦後の高度成長期、祖父母世代が地方から都市部へ集団就職をしたのに対し、その孫世代は都市から地方へ移住する。人口増加から人口減少へ。社会の変化が若者の生き方を変え、「地域」という文化が誕生した。
双方向時代の到来
「小豆島カメラ」の構想を練っていた2013年の夏、島は瀬戸内国際芸術祭の最中だった。テーマは「観光から関係へ」。"見られる観光地” から "共に作る地域”へ、それは「寂れた観光地を魅力ある創造都市に変える」という住民宣言でもローカルフォトによる写真によるまちづくりを始めて10年。かつてクリエイターは "都会の憧れの仕事” だったが、今や "地域の仕事” になった。「小豆島カメラ」の発足当初、メンバーに対して「これからは地域クリエイターの時代。この島でクリエイターの地産地消を目指したい」と伝えたことを思い出す。
「小豆島カメラ」は7人のメンバーで構成されている。「長浜ローカルフォト」や「岡崎カメラ」もすべてチームで活動してきた。主張が強いカメラマンをあえてチームにした理由は、複数名で発信することでより広く届けたかったこと。先の見えない時代、仲間と共に壁を乗り越えてほしいと思ったこと。アートシーンでもコレクティブの活動が増えている現在、写真チームはさらに増えていくだろう。
人口減少と情報化(デジタル化)。過疎に直面したからこそ、発信の技術を鍛え上げた地域の人々。消費でなく参加を促し、持続可能な地域を作る。まちづくりという新たなリテラシーを取り入れることで生まれた写真文化は、徐々に広がっていくだろう。ローカルフォトは道の途中にある。あった。同じタイミングで誕生した「小豆島カメラ」。こちらも "受信する側”だった住民が "発信する側” になることで、クリエイティブな地域を目指した。
ところで2013年は、スマートフォンが爆発的に普及し、SNSの画質が向上した年でもある。スマートフォンとSNSの台頭は「小豆島カメラ」や移住者の活躍を後押しした。メディアのデジタルシフトは「発信する→受信する・見る→見られる」 という20世紀の二項対立を溶かし、情報を受信するだけだった普通の人が発信するようになったことで本格的に双方向の時代が到来した。これ以降、地域クリエイターの活躍が始まる。
消費から持続可能へ
「小豆島カメラ」、ローカルフォト活動を始めた理由は二つある。一つは、下り坂を行くこの国の現実から目を逸らさず、地域づくりの一助となる写真を撮りたかったから。もう一つは、そんな "地域の写真” が新しい潮流を生み出すと確信したからだ。
日本の写真業界は、ハード・ソフトともに戦後の高度経済成長が作ったと言っても過言ではない。マスメディアを通じてコマーシャル映像が発信され、輝かしい文化を育んできた。言わば「資本主義の写真」。しかし21世紀になって、人口減少や気候変動などの多くの課題を抱え、一方で情報化が加速する現在。視点を「消費」から「持続可能」へと変えていきたい。言わば「人新世の写真」だ。
現在日本に1741の市町村があるが、2040年には半減すると言われている。また、年間出生率は2016年に初めて100万人を切り、2023年は77万人で過去最低となった。抗いようのない未来に対して、写真にできることはないか? そんな理由で始めたローカルフォト。「小豆島カメラ」の活動は観光や移住に貢献し、真鶴でも確実に移住者を増やしてきた。求められるのは、一過性でない地域への愛着である。
新たなリテラシー
これまでの広告写真が「消費活動を促す」ことをゴールとしたのに対して、ローカルフォトは「持続可能な地域」を目指す。前者が芸能界やJ-POPなど音楽やファッションに結びついていたのに対して、ローカルフォトはまちづくりや建築、土地にまつわる文化人類学などの知識が必要になる。クライアントは行政やまちづくり会社。新たなリテラシーを習得するのは大変だが、やりがいはある。
また、広告写真を撮影するのはプロカメラマン=専門家であるのに対して、ローカルフォトはすべての人がクリエイター。そして 複業時代のクリエイターはなんでもやる百姓。学生から主婦、シニアに至るまで、みんながクリエイター(百姓)になって土地を耕し(cultivate)、地域(culture)を育む。デジタル技術の進歩でカメラ技術の習得が簡単になった一方で、リテラシーは社会的で複雑になったと言える。
ドイツのアーティスト、ヨーゼフ・ボイスは「すべての人は芸術家である」と唱え、既存の「芸術」や「芸術家」の概念を覆したが、ここへ来てようやく日本も追いついた。
写真というモビリティ
近年、写真はオンライン上のモビリティとして不可欠な存在となっている。デジタル技術の進歩により、写真は簡単に撮影・共有できるようになった。以降、写真はオンライン上での存在感を高め、モビリティ(移動性)を発揮するようになる。「小豆島カメラ」やローカルフォトメンバーは、オンラインという新たな地平の遊牧民だ。彼らは伝統的なオフラインの制約から解放され、物理的な場所に依拠することなく瞬時に移動する。
オフライン時代において写真は "表現手段” とされていたのが、オンライン時代以降は "情報” や "コミュニケーション” の一環として利用されるようになった。写真のモビリティ化は、情報社会で重要な役割を果たしている。
震災から地方創生そしてコロナ禍を経た現在は、写真活動はオフラインからオンラインへ、重心は移りつつある。
地域クリエイターの活躍
ローカルフォトによる写真によるまちづくりを始めて10年。かつてクリエイターは "都会の憧れの仕事” だったが、今や "地域の仕事” になった。「小豆島カメラ」の発足当初、メンバーに対して「これからは地域クリエイターの時代。この島でクリエイターの地産地消を目指したい」と伝えたことを思い出す。
「小豆島カメラ」は7人のメンバーで構成されている。「長浜ローカルフォト」や「岡崎カメラ」もすべてチームで活動してきた。主張が強いカメラマンをあえてチームにした理由は、複数名で発信することでより広く届けたかったこと。先の見えない時代、仲間と共に壁を乗り越えてほしいと思ったこと。アートシーンでもコレクティブの活動が増えている現在、写真チームはさらに増えていくだろう。
人口減少と情報化(デジタル化)。過疎に直面したからこそ、発信の技術を鍛え上げた地域の人々。消費でなく参加を促し、持続可能な地域を作る。まちづくりという新たなリテラシーを取り入れることで生まれた写真文化は、徐々に広がっていくだろう。ローカルフォトは道の途中にある。
1月4日(木)から小豆島カメラ10周年の写真展を開催します!
1月13日(土)は「写真によるまちづくり10年」と題して小豆島カメラメンバーによるトークイベントも開催。ゲストは生駒市広報広聴課の村田光弘さんと「いこまち宣伝部」卒業生の中村京子さん。わたしもモデレーターとして参加します。みなさまふるってご参加ください!
文:MOTOKO
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