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タロイモの七転八起大陸自転車横断記 #11 銃に守られて、銃に脅かされて、苦難のパキスタン

 バンダレ・アッバースを発ちパキスタンへ近づくにつれて徐々に「何か」がおかしくなっていった、イランの旅の最終盤。国境越えに手間取ったものの、2023年の大晦日になって遂にパキスタンへ入国することができました。国境を越えて入ったパキスタン側バルチスタンは、この旅のそれまでの全ての苦労を過去にしてしまうほどの、圧倒的な修羅の世界。七日間ひたすら我が身の無事を祈りながら武装護衛と共にバルチスタンを走り続けて着いたのは、これまた悪名高いカラチの街。外出の度にビクビクしながら、それでも危険なバルチスタンはもう終わったのだと気を取り直して、しばしの休息ののちラホールへ向かって走り出します。しかし結局ラホールまで武装護衛は外れないまま。銃、病、嘘、そして想像を絶する大気汚染と不潔さに徹底的に苦しみぬきながら、時折発揮される人々の親切と自分の精神力だけを頼りに一か月間耐え続けたパキスタン走行の記録です。
 なお、今回の寄稿に関しては現地情勢上の不安からなるべくOM-1を取り出さなかったため、スマートフォン等で撮影した写真も含まれています。



砂漠、トヨタ、カラシニコフ バルチスタンを突破せよ

 大きな不安を抱きながらも遂に至ったパキスタン。既に通過していった自転車乗り達から聞く話はどれも強烈でしたから、私は内心震えあがっていました。国境越えの段階で既に大いに難儀しましたが、加えてパキスタンでは頻発するテロのため単独行動が基本的に許可されず、警察の武装護衛と共に行動する必要があります。特にバルチスタンではパキスタンからの独立を主張するイスラーム原理主義武装勢力が複数活動しており、テロが頻発しています。以前は同地を通過する外国人旅行者が襲撃、誘拐される事件がたびたび起きていました。そういった背景がありますから、護衛の到着を待つ間私は国境の事務所に案内され、そこで朝食を食べつつ不安に身を震わせました。全体的に荒れた建物たち、国境に列をなすアフガニスタン難民と思しき人々。砂漠、建物、すべてが灰色に近い世界へやってきたと感じました。日光ばかりが燦燦と輝いています。良いことといえば、イランのインターネット規制を遂に脱したこと。そして事務所のトイレは予想外に洋式だったので、もしかしたらパキスタンはそう酷くないかもしれない、と一瞬期待が胸に生まれました。

舞台はパキスタンへ。もう後戻りはできない。

 事務所で待つこと一時間、遂に護衛の警官がやってきました。警官といっても彼らは主にカラシニコフ自動小銃で武装しており、どちらかといえば兵士といった佇まいです。彼らはトヨタのハイラックスに乗り込み、外国人旅行者を国境からカラチまでの700km、およそ20kmごとに交代しながらリレー方式で護衛します。当然ですが、彼らは低速で進む自転車の護衛などしたくないため、交代のたびに自転車で走りたい旅行者と彼らの間で押し問答が発生します。ピックアップトラックには自転車と荷物を載せるだけの十分な空間があるので、そこに乗って行けと毎度言われるわけです。また、国境からはカラチまでの直通バスがあるため、人力で移動することにそこまでの拘りが無い人は大人しくそれに乗るのが吉です。私はリスボンから東京まで可能な限り人力に拘りたかったので、交代の度に自転車で走らせてくれるようひたすら頼み続けました。私としては、チンタラ走る自転車を護衛したくない彼らの気持ちは理解できたので、どちらかというと彼らの人情に訴えかけて協力を頼むやり方を通したのですが、はるかに数が多いヨーロッパ人サイクリスト達がどちらかというと「自分が自由に走る権利」を声高に主張する場合が多いため、彼らとの対比で私の護衛の警官たちからのウケはなかなか良かったです。
 全体として、彼らは自分のやりたくないことがあったときに、どんな嘘をついてでもそれを回避しようとします。そこは危険だから立ち寄れない(別段危険というわけではない)、あと数キロ先に別の場所があるからそこまで行こう(実際にはない)、といった具合です。特に物事が複雑になって説明が必要になったときに、説明という労力を要することを即座に諦めてすぐに嘘で何とかしようとするのは、パキスタンの警官に限らず南アジアで共通した問題であると感じます。これが旅行者と護衛警官がいつも揉めている大体の理由なのですが、嘘をいちいち追及しても次の嘘が出てきて、遂には喧嘩になるだけなので、私はもう最初から嘘を追求せず、彼らがなんと言おうとその手を握って黙って微笑みながら目をのぞき込んで哀願することを続けました。断言してもいいのですが、これを続ければ彼らは最後には必ず折れますし、関係も損なわれません。そして、一度折れた彼らは意外なほどに親切です。一番強硬に私を車に乗せようとしてきた警官が、最後には昼食を手配してくれたり、次の護衛への引継ぎの時に彼らを説得するのに加勢してくれたりといったことが何度もありました。ですから、私の初日の体験は想像していたほど悪いものではなかったのです。
 そういった具合に護衛との関係に気を配りつつ、バルチスタンの広漠たる砂漠を走り抜けていきます。護衛車両には時速40kmほどで走るよう頼み、私は車の真後ろに張り付いていわゆるスリップストリームに入ります。加えて荷物は全て車に乗せているので、殆ど体力を使わないまま猛烈なスピードで進んでゆくことができます。途中の警察のチェックポイントでは昼食にビリヤニが振舞われましたが、砂漠の中ということもあり水道は当然無く、甕から水を汲んで手を洗い、その手でビリヤニを食べました。電気は太陽光発電に頼っているようです。こういった粗末なチェックポイントが、たまに現地のテロリストに襲撃されるというのだから、彼らの仕事は過酷です。
 結局この日は90kmほど走り、港湾都市グワダルへ。街の入り口には軍が設けたチェックポイントがあり、自動小銃よりももっとちゃんとした機関銃が何丁も据え付けられ、通過する車両と人全てを検査します。さてこのグワダル、都市とは言いましたがその言葉で皆さんが想像する程立派な場所ではありません。しかしパキスタン政府と関係が深い中国の戦略上重要な港湾なので、一部にはバルチスタンの辺境に不釣り合いなものが建てられています。街を見下ろす高台に建つ高級ホテルなどはまさにその象徴なのですが、現地武装勢力は政府と関係が深い中国人を攻撃対象にしているため、それこそそのホテルは数年前に襲撃されて死者を出しています。ですから私はそこを避け、警察が推薦したもう少し現地の客が多い宿へ入りました。そこの宿で晩御飯に食べた魚のグリーン・カラヒが驚くほど美味しかったのを覚えています。カラヒとはパキスタンやアフガニスタンで見られる鉄鍋で炒めて作った汁気の少ないカレーの一種で、パキスタンの場合はトマト、ハーブ類、乳製品のどれを主に用いるかによって主に三種類あります。食後には大晦日なこともありさすがにと思い両親と電話を繋ぎました。特に母は息子がよりにもよってパキスタンのバルチスタンにいるということが不安なようでしたので、無理はしないことと最速でこの地域を抜けることを伝え、床に就きました。
 翌日は2024年の正月。昨晩と同じ護衛警官が街の出口までついてくれたので、朝は特に押し問答も無く順調に漕ぎ出すことができました。もちろんその後は何度も例の押し問答を繰り返しながら進んでいくのですが、段々慣れてきたこともありそれほど苦痛には感じません。特にこの日は親切な護衛に恵まれたこともあり、順調に進んでいきました。

この日の一コマ。一番左の背の高い警官は非常に親切だった。この休憩中に護衛警官のうち一人からインターネット・テザリングをさせてもらい、それで能登の大地震を知った。

 この日は結局次の港町、パスニまで走行。これまた辺鄙な場所で、なによりグワダルとの間の100kmには文字通りまるで何もないのですが、無事にこの地域にしては上等な宿を見つけることができました。疲労に加えて今後カラチまで上手く休めそうな場所が無いということで二泊することを決定。宿の門を出て50mほどの売店に行くのにも護衛が付いたことに驚きましたが、晩御飯のカラヒが大変美味しかったので満足して眠りに就きました。翌日は現金の調達と食料品を買いに出た程度で特に何もせず、身体を休めました。

晩御飯のチキン・カラヒ。

 パスニを出た日も、いつも通り押し問答と写真撮影の嵐を捌きながら走ってオルマラへ。途中でひょんなことから護衛が持っていた自動小銃を自分も持ってみたのですが、あんなに重いとは思っていませんでした。

パキスタン名物のデコトラ。
護衛警官二人組。右の男性が着ているのはサルワール・カミーズと呼ばれる伝統衣装で、
特にパキスタンの男性は皆これを着ている。
地域と管轄にもよるが、イランに接するグワダル国境とカラチを結ぶマクラン・コースタル・ハイウェイを担当する警察隊は新しいトヨタ・ハイラックスを装備している。

 さてオルマラもまたグワダルやパスニと同じような港町ですが、着いてみると街の外にあるやたら高い宿か町の中にある激安オンボロ宿の二択を迫られます。私は安い方へ行きましたが、そこへ至るまでがまた大変。パキスタンの宿は、大きな街での高級な宿になってくると自前の警備兵を雇っているのですが、安い場所や地方都市ではそういうこともありません。すると護衛の警官が原則朝まで宿に護衛対象と一緒にいなければならないようで、それを嫌がって護衛警官が私を警察署やより高い宿に連れて行こうとすることがままありました。これもまた彼らの気持ちはわかるのですが、警察署の環境はお世辞にも良いとは言えないですし、行ったところでパキスタン人の性格から言って(これはインド人も全く同様ですが)私を大人しく寝かせてくれるとも思えないので、私は可能な限り宿で一人で寝ることに拘りました。この日も二回別々の警察署に連れていかれそこで寝ろと言われましたが、粘りに粘ってなんとか最終的には町中の宿へ。とっくに日が暮れた後でしたし、宿はこの旅でもワーストの場所でしたが、宿の主人が非常に親切な人だったのでなんとなくいい気分になって就寝。護衛達もなんだかんだ結局は私を置いて帰っていきました。この日は晩御飯を食べるために宿の主人の案内で町中に出たのですが、これがバルチスタンで護衛なしで外に出た唯一の機会でした。町中を見渡した時、グワダルもパスニもそうだったのですが、やはりイランに比べて圧倒的に貧しい国に来たのだなという感覚は正直に言って拭えませんでした。
 朝になると、電気が付きません。夜半からの雨によって町全体が停電しているようです。たかが雨で停電を起こすというのは日本の皆さんには衝撃的な話かもしれませんが、パキスタンとインドの地方部では雨が降れば大体停電が起きます。宿を出て漕ぎ出してみれば、なにせ排水というものがありませんから未舗装の道路が水浸しになっています。人々がそこら中に投げ捨てるゴミと、道路を闊歩する家畜の糞と、どこからか流れてくる出所不明の水。これらが混ざり合った道路のぬかるみは当たり前ですが現地の人々も避けて通ります。せめて道の脇に排水溝ぐらい掘ればよいのにと思うのですが、とにかくそういった地道なことが非常に苦手なのが南アジアです。
 この日はぱらつく雨の中、オルマラからクンド・マリールというビーチリゾートへ。途中ヒンゴル国立公園を通過しましたが、同じ景色が延々と700km、イラン側のバンダレ・アッバースから数えれば1300km続くバルチスタンにおいて、突如現れる奇岩群が目に新しい面白い場所でした。クンド・マリールでも宿まで1kmの場所の警察署に一度泊められそうになりましたが、この時もまた哀願を繰り返してなんとか宿へ。前の晩のオルマラの激安宿に引き続きお湯は出ない場所でしたが、頼んだら厨房から大きなバケツに一杯の熱湯を運んできてくれたので無事湯浴みをすることができました。それ以外はなかなか良い場所で、やっと終わりが見えて来たバルチスタンの旅に少し安堵しつつ、翌朝の走行に備えて少し早めに就寝しました。

ヒンゴル国立公園の大峡谷を降っていく。
いったいどうやって形成されたのだろうか。そういえばこういった場所はイラン側にもあった。
ヒンゴル国立公園のシンボル、プリンセス・オブ・ホープ。

 朝になり、例のごとく約束の時間にだいぶ遅れてやってくる護衛と合流し走り出します。この日は途中泥火山の近くを通り過ぎたくらいで特筆すべきことは何もなく、カラチに近づくにつれてだんだん適当になっていく護衛と一緒にウィンダーという町まで走りました。最後の護衛は武装すらしていない警官がバイクに乗って先導しただけで、ひと時も気の抜けなかったバルチスタンの旅もようやく終わりに近づいていることが感じられました。ウィンダーではとくに宿らしい宿が無かったので、遂に警察署へ宿泊。夜間の外出は護衛付きですら許可されず、護衛警官のうち一人が私の晩御飯を買いに外へ行ってくれました。帰って来た彼に代金を少し多めに渡そうとしたのですが、彼は一切受け取らず、お前はここまでやってきてくれた客なのだから、客に払わせるわけにはいかないと言ってお金を受け取りませんでした。パキスタンでの日々もこの頃には一週間に迫り、最初は面白がっていた警官たちとの押し問答も百回近く繰り返すうちに完全に厭になっていた頃でしたから、彼のこの親切には心が救われました。そうはいっても警察署のトイレは想像を絶する場所で、後になって署長が「客にあんな場所を使わせるな!」とばかりに署長室のトイレを使うよう私に勧めてくれたのですが、随分ましとはいえそこもまた大概な場所でした。

これでもかなりマシ。

 翌日、バルチスタン走行の最終日です。ウィンダーの町を出てすぐにハブという町へ到着。ここの警察署で持参の昼食を食べていたら、警察署の方で作ってくれたビリヤニが私にも供されました。辛みは強いのですが、鶏肉のうまみとスパイスが絶妙に調和していて、ビリヤニは大体いつでも美味しいものでした。
 ハブを出ると大きな川があり、その川こそがバルチスタン州とシンド州の境目です。バルチスタン州警察からシンド州警察への引継ぎが特にあるというわけではなく、シンド州警察も私に特段興味があるというわけではないようで、ここで遂に護衛が外れ完全に自由になりました。イラン以来の自由に大いに感激といきたいところではあったのですが、大都市カラチに近づくにつれ明らかに酷くなっている大気汚染と、勢いを増す混沌の中でそれどころではありませんでした。バルチスタンの辺境の町でも私はその混沌、そして言葉を選ばずに最も簡単な言葉で言いますと、その汚さに辟易としていたのですが、カラチの周縁部はもはやその比ではありません。第一に混沌。歩行者も車もバイクも、ルールなどありません。逆走はもはや逆走ですらない。第二に騒音。独特の旋律を奏でる超大音量の改造クラクションを、道行くあらゆる車達が息をするように鳴らす。第三に大気汚染。喉が痛い。遠くが霞んで見えない。そして極めつけがゴミ、ゴミ、ゴミ、ゴミ、ゴミ、ゴミ、ゴミの山。途中で立ち寄った売店で菓子を食べて、さてその殻を捨てようとするがゴミ箱が見当たらない。店主にゴミ箱の在処を尋ねたら、私の手からそれを取り上げた店主が「これがパキスタン流さ!」と誇らしげに言いながら道端に投げ捨てた。道端、いや道端に限らず果てしなくどこまでもひたすらゴミが散らばっている。これら全てなにもパキスタンに限った話ではなくインドも全く同様ですし、カラチに至るまででもその片鱗を私自身体験してきたのですが、あれだけの人口密度の場所となるとカラチが初めてでした。私はややパニックのような状態になりました。とにかく人生でこれほど凄まじい場所は見たことがない。もしかしたら自分が砂漠にいる間に第三次世界大戦が起きて、今は戦争直後の混乱期なのではないか?そんな馬鹿馬鹿しいことを当時は考えながら、なんとか早く抜け出そうと中心部へ急ぎました。

基本的にはどこでもゴミが散乱しているのがパキスタンとインドだが、その中でも特にゴミが集積されている場所がある。そういった場所ではもはやゴミが地層を成し、そしてそのゴミの中から少しでもお金になりそうなものを拾い集めて生きている人たちがいる。

 周縁部がかなり世紀末的様相を呈していた一方市街地中心部はだいぶマシで、自分はその中でも最も安全とされる地区の宿へ向かいました。周辺に食中毒の心配をしなくても良さそうな飲食店が多数ある場所で、宿も真新しい家族経営のゲストハウスでした。まずは数日ぶりの温かいシャワーを浴び大いにリフレッシュ。バルチスタンではなかなかインターネットに接続できませんでしたが、この宿はwifiも良く、おまけに経営者家族も素晴らしい人たちでしたので、身体とそして何より精神が復活するまでの間滞在することに決めました。夜は到底出歩く気分にならなかったため、出前を頼んで部屋でYouTubeを観ながら食べました。今となっては怠慢とすら感じる日常の風景ですが、当時の私にとってこれは非常な贅沢でした。食後はありとあらゆる疲れがどっと出て、そのまま気絶するように就寝したのでした。


束の間の休息と食中毒 カラチの日々

 カラチ滞在の初日は、まず連日食べ続けてきたパキスタン料理から離れようと思い心機一転KFCへ。入り口に警備員兼ドアマンの散弾銃を持った男がいることに驚きましたが、パキスタンの少しでも高級なところは銀行やホテルを含め大体こんな感じです。そう、KFCは富裕層向けの食事なのです。なにはともあれ、久しぶりにスパイスがきつくない食事に満足。パキスタンの伝統料理は美味なのですが、やはり刺激物が多く胃腸が疲れます。また油分も恐ろしく多いため、今となっては笑い話ですが当時の私はKFCのフライドチキンを「随分ヘルシーな食事だな」と思いながら食べていました。加えて何より、工場で大量生産されているであろうコールスローサラダがむしろ食中毒の心配がなくありがたいのです。南アジアではこういう機会でもないと生野菜は食べられません。生水と生ものを徹底的に避けるのは基本中の基本です。
 昼食後に向かったのは歩いてすぐのショッピングモール。この一帯はカラチの中でも特に富裕層向けの区画で、洒落たレストランや高級家具店が存在します。もちろんショッピングモールの入り口には自動小銃で武装した警備員が複数人立っているのですが、こうすることで辺り一帯の治安が辛うじて保たれているのです。中では家具店や雑貨屋を特に何を買うでもなくうろつきましたが、当時の私にとっては良い気分転換でした。最後にダンキン・ドーナツへ入り、コーヒー一杯とドーナツを二個平らげました。パキスタンではなかなかの贅沢です。さてその後は宿で寛ごうと思い帰路についたのですが、いくらカラチの中で一番良い区画といってもやはり気を抜けるような空気ではありません。店という店を守る武装警備員達もそうですが、あちこちから垂れ下がっている電線の中には通電しているものもありこちらもなかなか恐ろしい。歩道と思わしき部分を歩いていれば、バイクや車がそんなこと関係ないとばかりに突っ込んできます。相変わらず大気汚染も酷い。宿の自分の部屋に戻って来た時には心底ほっとしました。

帰り道にあった水路。緑色がかった部分はなんと水面である。流れ着いたゴミが水面を覆いつくし、また下水がそのまま垂れ流しになっているだろうこともあって悪臭を放っている。

 南アジアでは、とにかく宿の外に出るのが億劫になります。彼の地では私の感性にとって大体の物事が「やりすぎ」なので、一歩屋外に出るとそれら全てに圧倒されてすぐに部屋へ逃げ帰りたくなります。ですから二か月半の南アジア走行を通して私は部屋に籠りがちになることが多く、カラチ滞在二日目も例外ではありませんでした。三日目になり、予備のスマートフォンを購入するために電子機器市場へ。イラン側バルチスタンの走行中に砂漠の中で唯一の稼働端末が動かなくなったことがあり、その時以来カラチで予備端末を購入しようと考えていたのです。さてこの日の朝私は念のためサラエヴォでの水没以来触っていなかったiPhoneを取り出して確認したのですが、すぐに強制終了するとはいえ一応起動できることが分かったので、まずはこれを修理できるか試そうと決めました。そして最初に持って行った修理屋が親身に対応してくれ、結局基盤を分解して修理することに。一時間ほど雑談をしながら待っていたら、無事に修理が完了したとのことで試しに起動して見ればなんとちゃんと動きます。修理費用は約2500円。新品の安価な端末を買うよりもよっぽど安く済みました。日本などでは基盤の修理とはならず基盤ごと交換の対応になりますから、私の使っているような古い機種だと新品を買った方がはるかに安いとなりがちなのですが、多少技術的に困難でも基盤を開けてなんとか修理するというのは、なかなか新品の製品を買うというわけにはいかない国ならではです。こういった部分こそむしろパキスタンやインドが得意とするところで、後々にコルカタで眼鏡が壊れた時もそうなのですが、とにかく探せば直してくれる人が必ずいるものです。
 さてこの日の帰り、小洒落たものの一つでも食べたくなり二日前のショッピングモールの目の前にある高級そうなカフェレストランへ入ったのですが、これがその後数日続く受難の始まりでした。着席してメニューに目を通してみると、なかなかパキスタンで普通に暮らしていてはお目にかかれないような料理がずらっと並んでいます。特に私の目を引いたのが「NIGIRI SUSHI」でした。今思えばなぜそんな危ない橋を渡ろうとしたのかと思うのですが、当時の私にとってそれは恐ろしく魅力的に映りました。それに、これだけ高級な店なら衛生管理もしっかりしているだろうと思ったのです。ですから私は握り寿司とマグロの入ったサラダを頼み、そのどちらも平らげました。会計の方も、高級とはいっても二千円いかない程度。これでむこう一月は頑張れるな、と思いながら宿へ戻りました。

迂遠な服毒自殺に近い。

 翌日目が覚めると、騒ぎ立てるほどではないのですが気分が悪い。いつも通りの下痢だろうかと思い、出すものを出して体調が落ち着くまでは部屋にいようと決めた矢先、突然吐き気を催し大急ぎでトイレへ駆け込みます。既に胃の内容物は腸に行った後でしたから、出るものも出ないまま嗚咽を繰り返しました。地獄の苦しみと思いましたが、しばらくしてやっと落ち着いたのでベッドへ戻りました。自分が明らかに食中毒であることを自覚し身体を横たえましたが、体調は思ったよりも悪くもう自力ではどうにもなりそうにありません。やっとの思いで起きだして宿の主人に食中毒である旨を伝えたところ、彼はバイクの後ろに私を乗せて最寄りの病院へ連れて行ってくれました。病院では脱水症状と診断されて直ちに点滴を受けました。これのおかげでなんとか自力で歩けるくらいまでにはなり、薬を受け取ってからは外でずっと待ってくれていた宿の主人のバイクに乗り込みました。自室に戻った後は一日半横たわり続け、カラチ滞在の最後の日、滞在六日目になってやっと外に出るだけの気力を取り戻しました。南アジアでは生ものは例外なく避けねばならないということを学んだ一件でした。
 最終日にはまず国立博物館へ。古代インダス文明以来の歴史遺物が展示されています。周辺を歩いていた時に、けたたましいサイレンを鳴らしながら走り去っていく武装警官を満載したピックアップトラックを何台か目撃しましたが、あの日カラチのどこかでテロでもあったのでしょうか。あの頃になると自分もそういった光景に特段驚かなくなっていました。次に向かったのは建国の父ジンナーが葬られているジンナー廟です。こちらは正直なところ大して面白いところでもなく、早々に退散。まだまだ病み上がりでフラフラしていたのもあって、宿に戻ることを決めました。宿に戻って一休みした後は連絡を取っていた現地のサイクリストのユスフと近場での夕食に出かけました。彼にはその後も何度かお世話になり、またラホールまでの道中についての助言もいくつか貰い、有意義な時間になりました。
 カラチでの一週間は食中毒になったこともあり必ずしも安らかな時間ではありませんでしたが、それでもバルチスタン走行で心身ともに疲れ果てた自分を癒すのには十分な時間でした。とはいえこの頃になると、困難なのはなにもバルチスタンに限った話ではないことを理解し始めていましたから、ラホールまでの1200kmの距離には絶望に近いものを感じていました。明日また走り始めると、辛い日々が始まる。しかし前に進まない限り永久にこの苦しみから解放されることもない。そう思いながら眼を閉じました。


パキスタンに救いはあるのか 絶望のシンド

 朝になり、嫌がる身体を無理やり動かして外へ。カラチを出るとこの先ラホールまで現金を確保できないと予測できたので、ありったけの現金をATMからおろして街を出ました。北東へ向けてカラチから出るのは西から入ってきた時に比べればずいぶん楽で、市街地を出たあたりで昼食に。例のごとくカレー系の料理ではありますが、パキスタン料理は味に深みがあり相変わらず美味です。また、カラチを出ても警察に止められるようなことは無く、それなりに気分よく進んでいました。この日の目的地はタッタという町で、目当てはムガル朝期の歴史遺産です。前の晩に会ったユスフの親戚のお宅にお世話になることになっており、まずは合流地点のシャージャハーン・モスクへ向かいました。モスクへは着いたものの、案の定合流は円滑にはいかず、そうこうしているうちに通りがかりの警察に見つかりお縄に。カラチを出て早々、あのしんどい護衛付きの日々に戻らねばならないのかと思うと、かなりの絶望感がありました。その後宿泊場所として案内されたのは牛舎の脇の小屋で、水道も電気もないので日が暮れたらすぐに真っ暗に。これはあんまりだと思いユスフに泣きついたら、彼も私が親戚の邸宅に案内されるものだと思っていたようで、すぐに親戚に掛け合ってくれ、無事まともな場所に移動となりました。本来の邸宅はこの日別の来客で既にいっぱいだったようで、それで私が人間の居住を想定されていないところに案内されたようなのですが、どうもそれは飛躍が過ぎるのではないかと思いました。
 翌朝、もちろん護衛付きではありますがタッタとその隣町マクリの遺跡群を訪問し、その後ハイダラーバードへ向かって走り出しました。不思議なことに、護衛は町を出たあたりですぐに姿を消しました。さて、この地域はインダス川下流の広大な低地になっているのですが、一帯は2022年の大洪水で壊滅的な被害を受けた地域です。大洪水ではパキスタンの国土の約三分の一が水没したと言われていますが、そもそもパキスタンの国土の半分程度は山地であるように地図上で見えることを考えれば、まさに破局的な災害であったでしょう。わたしがシンド州南部を通過した時には既に大洪水から一年以上が経過していましたが、それでもまだ水没している場所が点在し、水が引いた場所でも地面一帯に塩がふいている場所が大変多かったです。これらの低地は例外なくといっていいほどかつて農地であった場所で、パキスタンの極端に貧しい農民たちの生活を辛うじて支えていました。それが今や全くの不毛の大地に変わり果ててしまったのです。そしてその光景を横目に、新車のトヨタ・カローラが走り去っていきます。パキスタンで過ごして二週間、この国のあまりにも歪んだ社会構造は明らかでした。カラチなどに住む富裕層は、新車の日本車を買うぐらいの余裕があります。一方人口の圧倒的多数を占める低所得者層は、もはや貧乏という言葉で片づけるのが難しいほどの貧しさで、それこそまさに日々命を繋ぐようにして生きています。イランでは、粗末な国産車とはいえどの世帯も車の一台や二台は持っているものでした。パキスタンでは、自家用車とはごく一部の人たちの贅沢品です。とにかく富裕層と低所得者層の間の断絶が余りにも酷く、そしてその間の中間層の人々というものがおよそ見当たらないのです。

マクリのネクロポリス。無数の墓の中に、立派な霊廟が点在している。
マクリ・ネクロポリスの特に有名な霊廟。
マクリの丘から未だに水没している低地を眺める。このような低地の水辺には、往々にして最下層民たちのスラムが形成されている。いや、大洪水で住処を追われた農民たちの避難キャンプなのかもしれない。カースト制度の名残だろうか、インド同様社会の上層民と最下層民では、肌の色に加えてそもそも民族からして違うように見える。
タッタのシャージャハーン・モスクの内部。インドのイスラーム建築はペルシア建築の影響を強く受けながらも、インド独自の様式が取り入れられている。一つわかりやすい違いとして、ペルシア建築は四面のうちある一つの面しか作りこまれていないが、インド・イスラーム建築はすべての面に同様の装飾が見られる。

 夜になり、なんとかハイダラーバードへ到着。パキスタンでは日没後の走行をしたくなかったのですが、この日は午前中を観光に費やしたこともあってそうもいきませんでした。夕暮れ時に、警察でも軍でもない自動小銃で武装した男たちを乗せた車とすれ違ったときは肝が冷えましたが、パキスタンとはそういう国なのです。この街では、病み上がりで疲労が大きかったこともあって二泊することにしました。宿の近くにマクドナルドがあったのですが、こちらはまさに街一番のレストランといった趣で、世界中どこでも同じなマクドナルドの平屋建て店舗は、荒れたパキスタンの街並みの中で一際輝いていました。自動小銃で武装した警備員にドアを開けてもらい中へ入り、頬張ったハンバーガーは長いこと遠ざかっていた味で、心に沁みました。
 翌日は、ハイダラーバードを出てSakrandという町へ。この日もなぜか護衛はつかず、自分のペースで、しかし決してN5ハイウェイから外れることなく進んでいきます。途中時速40km前後でゆっくりと走るトラックが多いことに気づき、試しにその後ろに張り付いて走ってみるとこれが楽です。現地のバイクも同じことをやっていたので、パキスタンでは常識のようです。私はこれを金魚の糞走法と命名しました。取り付くトラックを替えながら快適な速度のトラックを見つけ、距離を伸ばしていくことはトラック・サーフィンと名付けました。夕方になりSakrandへ到着し、N5沿いのゲストハウスに入りました。食堂の二階にある場所で、チェックインには難儀しましたし、日が沈むまでは電気がないとのことでしたが、ほかに選択肢などありません。なぜか日没前でもガスは通っていたので先にシャワーを浴びてから晩御飯へ。食後は同じ町に数日前からいた別のサイクリストの集団と連絡を取り、明朝に合流する手はずを立てました。私は私で寂しかったので、一日だけ誰かと一緒に走ろうと考えたのでした。一通りのことが済んでから就寝したのですが、深夜になって廊下から隣の部屋のドアを激しく叩く音で目が覚めました。何者かが、ほとんどドアを蹴破るような勢いで何かを叫びながら戸を叩いています。しかし隣室には誰もいないようで反応はありません。すると、男たちが今度は私の部屋の戸を叩きます。ここでなんとなく察した私は、大騒ぎになる前に戸を開けました。するとやはり、そこに立っていたのは自動小銃で武装した警官二人組。宿の主人が警察に報告したのでしょう。すべてを理解した私は観念して警官と握手を交わし、翌朝の出発時間を伝えました。
 朝になり、まずは例のサイクリストたちに警察の護衛がついたことを伝えました。彼らは上手いことやっていたようで護衛がついておらず、私と合流するかどうかは考え直した方がいいと伝えたのです。しかしそれでも彼らは私と合流することを選んでくれたので、ここから数日はいろいろな意味でなんとも賑やかな日々になりました。
 旅は道連れの初日、事前に伝えられていた通りグループのうちカラチから自転車旅行に切り替えた元バックパッカーのイラン人女性が非常にゆっくりなので、グループ全体も非常にゆっくりになりました。これは私も承知の上で、一日だけ一緒に走りその後はまた自分のペースで一気に走ろうと考えていました。この日は40kmほど走り、N5沿いのレストランへ。パキスタンでは大きな道路沿いのレストランには大抵客を泊める部屋があります。当然綺麗なトイレや温水シャワーなどというものはありませんが、野宿をするという暴挙に比べればだいぶ現実的です。護衛の警官たちも一緒になって広い部屋で夜を明かしました。

私が合流したのは、サイクリスト三人組の集団。そのうちの一人、
イギリス人のチャーリーとはなんだかんだその後三つの国で三度会った。

 翌朝、予定通り私は彼らと別れて走り出そうとしたのですが、警官たちが私を引き留めます。聞けば、パキスタンは選挙シーズンまっただ中で、政治集会の警備に人員が出払っているから、まとまって行動してくれとのこと。なるほど事情は分かりましたが、私としてはそれを受け入れるとこの国から脱出するのにどれだけかかるのかもわからなくなるので何としてでも分離したい。そもそも、当時私たちは既に幾百もの嘘に曝され続け彼らの言うことをほとんど信用しなくなっていたので、いずれにせよすんなりとはいきませんでした。この日は私たちと警官隊の間で何度も化かしあいと口論があったのですが、最後にはこちらが諦める形に。途中の町ではパキスタン人民党の集会が行われており、テロを警戒する週百人の武装警官に囲まれる形で、一万人以上はいたと思われる群衆が異様な熱気を放っていました。人員が出払っているというのは嘘ではないな、と理解した私はとにかくいかにも自爆テロや銃乱射が起きそうな集会から抜け出そうと急ぎました。途中で私たちは群衆を避けるために脇道へ入ろうとしたのですが、現地の男性たちがいつになく真剣に私たちを止めます。この先は非常に危険で、誘拐されるから絶対にN5から外れるなというのです。パキスタン人が危険だという時は本当に危険です。普段警官から何を言われても疑ってかかる私たちも、この時ばかりは素直に引き返しました。余談ですが、このパキスタン人民党という政党はシンド州で非常に強い支持を持っており、ところどころに高い塀と有刺鉄線で囲われた要塞のような拠点を建てています。また、熱心な支持者達が大きな党旗を掲げながら車で走っていたり行進したりしているのを頻繁に見かけました。そのうえでパキスタンにおいてどれだけ銃器が普及しているかを考えれば、何が起きても不思議ではありません。実際この選挙では、(シンドではないものの)バルチスタンでやはり投票所を狙ったテロが発生しました。

日常の一コマ。

 夕方になり、全てに疲れ果てながら前日同様にN5沿いのレストランへ入りました。部屋は空きがないということだったので庭にテントを張り、まずは夕食へ。食べるものを決めに厨房へ来いと言われ行ってみると、そこは明かりもほとんどない空間で、片隅の一段上がったところにはどうも料理人が寝泊まりしているような空間がありました。蓋を開けて鍋をのぞき込んでみると無数の蚊が浮かんでいますが、それが唯一の肉料理だったので私はそれを選びました。厨房は見ない方が幸せだったな、とチャーリーと話しながら食事を食べていると、オーナーが例のイラン人女性にしつこく話しかけて、なんと彼女のスマホのパスワードを聞いて中を覗こうとしています。彼女は当然怒りましたが、残念ながらこういった振る舞いは南アジアの男性にそれほど珍しいものではありません。印パに共通して女性の社会的地位が著しく低く、特にイスラーム教スンニ派の原理主義的な解釈が幅を利かせがちなパキスタンでは、田舎町などは町中で女性を殆ど見かけません。ここまでくると社会的地位云々というより女性に人権が認められていないといった方が適切な気がするのですが、そもそも人権という概念自体経済的な豊かさの上に初めて成り立つものなのでしょうか。男は男で、レストランの屋外の辛うじて軒下にある、私たちが最初客の休憩用だと思っていた簡易な寝台で毎晩寝泊まりをして、家に帰ることもなく恐ろしい低賃金で毎日働いています。この日は晩のうちから護衛の警官隊の一番偉いであろう人に何度も根気強く、お菓子の差し入れなどもしながら、明朝私だけが朝早く走り出して他の三人から分離することを説明しました。彼は無事に了承してくれ、翌朝は彼自身が私の護衛に朝からつくとまで言ってくれました。正直なところそれでも私は疑心暗鬼でしたが、これ以上しつこくするべきではないと考え、寝袋に潜り込みました。
 翌朝になり、私が危惧していたようなことは起きないまま無事に単独で走り出すことができたときは安心しました。とはいえ前日も、このように警官隊が一度私を単独で走らせながら別の場所で護衛の交代待ちと噓をついて、後続の三人組が来るまで待たされるということがあったので、最後まで気は抜けません。とはいえ我々にも作戦はあり、警官隊が私たちを一纏めにしようと思わないくらいまで私が遠くへ行くまで、他の三人は走り出さずにいたのです。60kmほど私が先に進んだ時点で彼らにもう大丈夫だと連絡し、彼らもまた走り出しました。彼らは一日に40km程度しか走らないので、この時にはもう一日分の差がついていたのです。

この時期は濃霧と大気汚染の合わせ技で視界が悪い。

 結局この日はさらに80km走りサッカルというこの地域の中心都市まで走りました。N5から外れたインダス川沿いの低湿地には武装強盗団が多数存在するということで、この地域での護衛はバルチスタンを除いたパキスタンの中でも比較的厳重でした。サッカルには二泊することに決めていたので宿選びには慎重になったのですが、サッカルや後に訪れたムルターンのような大きな街には大抵自前の警備兵を雇っている高級ホテルがあり、いずれにせよ自分で選ぶ余地もなく警察にそこへ連れていかれます。とはいえ私自身も三日に及ぶ戦いのような日々で疲れ切っていたので、ありがたく一泊七千円の宿に泊まることを受け入れました。この晩は部屋のベッドに横たわりながらひたすらYouTubeを眺めていました。その時に見たパキスタン大洪水のドキュメンタリーは衝撃的で、この時初めて私はいつも横目に見てきたパキスタン農村の人々の月収が数千円しかないことを知り、塩をふいた大地、物乞い、屋外で寝泊まりをするレストランの従業員、水辺にあるスラム、これら全てを無視するかのように走り去る富裕層の自家用車、そんな光景に取り囲まれながら一種異様な佇まいを見せている高級ホテル、その高い壁に囲まれた庭を部屋の窓から眺めている私、そういったそれまでパキスタンで見てきたすべての光景が一挙に心に押し寄せ、私はもうどうにもならない気分になり枕に突っ伏してしまいました。
翌朝私はもうとても外に出たい気分ではありませんでしたが、昼ご飯のために外へ出ようと思い護衛を頼みました。やってきた男は中々気持ちの良い男で、私がこんなことで呼び出してすまないと言うと、それが私たちの仕事だから気にしなくてよいとなんとも心強い返答。KFCに入り注文をしたらなんと支払いまでしようとしてくれましたが、それは流石にと思い、私からのお礼ということで一緒に食事を楽しみました。サッカルの街は宿を一歩出るとやはり灰色の街並みで、運河の両脇には案の定スラムのようなものが見えます。やはりどうにもこれには慣れないと思いながら宿へ戻り、私は再び部屋に閉じこもりました。
 翌朝、つらい外の世界へ出たくないと嫌がる自分をなんとか自転車に跨らせて走り出し、まずは70kmほど先のGhotkiの町へ。カラチで会ったユスフの繋がりで、バイク乗りの男性に昼食に招かれました。指定されたレストランに行ってみると、彼は地元の名士風の友人二人も連れてきており、彼の勧めたペシャーワリ・カラヒを頂きました。ペシャーワルとはアフガニスタンに接した山岳地帯、カイバル・パクトゥンクワ州の州都で、歴史上有名なカイバル峠を経てアフガニスタンに至る道のパキスタン側の拠点です。一帯はどちらかといえばアフガニスタンに文化的にも近い場所のようで、このペシャーワリ・カラヒも如何にもインド的な味というよりかはアフガン的なトマトや肉を前面に押し出した深みのある味で、焼き立ての豊潤なロティととろけるようなナーンも合わさって、この世のものとは思えないような美味しさでした。肉の旨味、絶妙なスパイスの加減、そしてトマトの酸味と旨味が渾然一体となったあの味は忘れられません。食後はDaharkiまで走り、現地では警察の言うままに町中のゲストハウスへ入りました。この頃になると、北に行くにつれひどくなる一方の大気汚染はもう形容しがたいほどの惨状になっており、夕方には低層に溜まった有害な微粒子が夕陽を乱反射させるため、あたり一面がオレンジ色から紫色の世界になっていました。宿は宿で、お湯が出るとは言うもののそんなものはいつまでたっても出ず、気温が相当低かったこともあって宿に泊まっているにも関わらず入浴せずにそのまま寝ました。
 翌朝、Daharkiから15kmほど進んだところにあるシンド・パンジャーブ州境を目指します。天気予報では快晴で気温が20度あるらしいのですが、厚い大気汚染の層が日光を遮るため体感温度は5度もありません。震えながら漕いでいくと、無数に現れる非常に原始的なレンガ工場の煙突から黒い煙が立ち上っています。パキスタンやインドで頻繁に見かけるレンガ工場はおそらく紀元前から大して変わっていないような構造の代物で、これこそが同地の常軌を逸した大気汚染の主犯格であると言われています。さらにこれは後に知ったことですが、こういった工場では計算があまりできないことに漬け込んで、地主や債権者が農民たちを奴隷労働的に働かせることも多いようです。さてそうこうしているうちに州境へ着きました。パキスタンではどうも州ごとに独立性が強く、状況もだいぶ異なるということはなんとなくわかっていましたから、シンドに比べれば若干豊からしいパンジャーブがなんとか少しでもマシな場所であることを祈りながらチェックポイントで手続きを済ませ、私はパンジャーブ州警察に引き渡されました。


期待とは裏腹に パンジャーブをゆく

 こうして根拠もほとんどない僅かな期待に縋るようにしながらパンジャーブ州へ入って行くも、やはり結局何かが変わることはありません。むしろ大気汚染は北へ行くにつれて酷くなっていくばかりです。まぁ結局こんなもんか、と思いながらこの日はラヒーム・ヤール・ハーンという街へ。割と大きな都市ということもあり、中心部には洒落たものを扱う店もあります。一方で中心に近づくにつれて道は混雑を増し、何度か護衛車両とはぐれましたが、最後には比較的高級なものが集まっている地区の宿につきました。前の晩が散々だったので、この日の熱いシャワーが沁みたことを覚えています。西ヨーロッパを含め世界の殆どの国では電熱式の温水タンクに依存しているため、大抵の場所では十分もシャワーを流すともう冷水しか出てきませんが、その点パキスタンはガスで湯を沸かすのが一般的で、湯さえ出るならいつまでも出続けます。これは地味にありがたかった点でした。とはいえ、そもそもそのお湯が出る場所を探すのが大変なのですが。食後はサイクルコンピューターの電池を買うために護衛警官を呼んで時計屋へ。無事に事が済み、夜遅くにわざわざ来てもらったお礼にチャイを振舞おうとしたのですが彼は固辞するばかり。隙を見て注文したところ、最後には受け取ってくれました。彼はかの地では珍しく寡黙な男で、チャイを飲んでいるうちに少しずつ彼自身の話を聞かせてくれました。このままパキスタンにいても未来がないのでドバイに建設労働者として出稼ぎに行こうと考えているとのことでしたが、湾岸諸国での南アジア出身出稼ぎ労働者の奴隷的境遇は有名なので、私は一言よく気を付けた方がいいと伝えました。
 翌日は特に書くようなことも起きないまま長い距離をひた走り、ウチュ・シャリーフという町へ。アレクサンドロス大王が東征の際に建設した多くのアレクサンドリアのうちの一つとして始まった、長い歴史を持つ町です。郊外にはイスラーム神秘主義(スーフィズム)の聖人たちの古い霊廟がありますが、私は訪問する機会には恵まれませんでした。この町には大した宿もないため久しぶりの警察署泊となり、署長が親切にも物置に寝床と暖房を準備してくれました。加えて夕食を用意してくれた上に、「もう疲れているだろうからよく休め」と言って放っておいてくれるなど、至れり尽くせりでした。

昼食の一コマ。果たして食卓の上に置くものなのだろうか?食べたカラヒはこれまた絶品だった。
この日の寝床。放っておいてくれたのが本当に嬉しかった。パキスタン人とのやりとりは中々一筋縄ではいかないことが殆どだが、一方でこの日のように一切見返りを求めない素晴らしい善意を見せてくれることもまた多い。

 翌日は中部の大都市ムルターンへ。この日もいつも通りトラックの後ろに張り付いて、何度も護衛の交代を待ちながら進んでいきます。最後の最後でなぜか大きな遠回りをさせられながらムルターン手前40kmほどの町の警察署に連れていかれたのですが、聞いてみれば署長が会いたがっているとのこと。また面倒くさいことになりそうだなと思い、護衛の警官にどうにかして断れないのかと聞くも、彼もやはり上司の命令で断れないとのこと。彼の体面のこともあるので私も観念して護衛車両に付いていきました。いざついてみると、どうも新築した警察署を見せたかったということのようで、軽く案内を受けてから署長室へ。チャイとお茶菓子を頂きながら、幹部たちが所長に報告を上げるのをしばらく待ち、やっと私の晩になったと思ったら一言二言で満足されたようでした。その後どうすればいいのか私はよくわからなかったのですが、先ほどの護衛の警官がうまいこと「それではもう行きましょう」と助け舟を出してくれたおかげで案外早く出ることが出来ました。出たところには地元のテレビ局が待ち構えていたので、軽くインタビューに答えて、日が暮れ行く中ムルターンへの残りの道を急ぎました。ムルターンもサッカル同様に外国人が宿泊できる場所が指定されている街で、相当高額なところかさもなければ警察署に行くしかありません。護衛たちは私をとりあえず一番立派な宿に連れて行ったのですが、なんといってもまずゲートが分厚い。インターフォンを鳴らして外国人の客が来たと警官が伝えると、その分厚い鉄の門がゆっくり開き、中から自動小銃で武装した警備員が出てきます。彼らに案内されながら自転車を停めて受付へ向かったのですが、明らかに私には場違いな場所のようでした。受付で一泊の値段を聞くと、なんと約一万五千円とのこと。仰天した私は外へ出ようとするのですが、もう面倒くさくなった警官たちは既に帰ってしまっており、こうなると私はそもそも外に出られません。出ようにも警備員に制止されます。近隣の他の指定ホテルを調べ、そちらの方がだいぶ安かったのでそちらへ行くと伝えるのですが、そのわずか数百メートルを移動することが許されないのです。仕方がないから地元の警察に護衛を派遣するよう頼んでくれないかと受付に頼んだら、ではその移動先の価格を教えてくれ、それと同等まで割り引くとの提案。断る理由もないので、結局その場違いな高級ホテルに泊まることになりました。サッカルから四日走り、身体も相応に疲れていたのでここには二泊することとなったものの、翌日は護衛の人員を捻出できないため宿から一歩も出られずじまいでした。
 さて十分に体を休めてムルターンを出ると、国境の大都市ラホールまでは四日の距離。カラチを出たときは絶望感を感じていたいつ終わるとも知れぬパキスタンの旅も最終盤に差し掛かり、やっと心に余裕を持てるようになってきました。ムルターンの街を出てしばらく行ったところで、まずは護衛の警官がモスクで金曜礼拝を済ませるのを待ちます。外で待っているとあっという間に人だかりができ、皆が代わる代わる挨拶と握手をしてくれます。この後訪れたインドでも同様にあっという間に人だかりができましたが、インドでは人々は遠巻きに私を取り囲んで、何を考えているのかどうにもわからない無表情で私を見てくるだけだったので、パキスタン人の方が随分社交的で助かりました。その後しばらく走り、ミアン・チャンヌーという小さな町へ到着しました。事前に目星をつけておいた宿を護衛の一人に伝えると、了解したとの返事をもらいましたがいざ現地につくと理由も告げずお前はここに泊まれないの一点張り。この展開には慣れ切っていましたがそれでも疲れるものは疲れます。建物の中に入ってそこにいた人に理由を聞くと、単に今現在は宿泊施設を閉めて結婚式場としてだけ営業しているとのことでした。護衛の彼もそう一言いえば(もっとも私が一言目で信用するかはさておき)よいものを、なぜかそうはならないのです。結局警察が代わりの宿を見つけてくれたので、そちらへ移動。当たり前のようにお湯は出ませんでしたが、一月のパキスタン北部はそもそも寒いうえに大気汚染が日光を阻害することもあってかなりの寒さです。現地の人々の生活はやはり厳しいものなのでしょう。
 翌日も引き続きN5を走りますが、途中で道を逸れて古代インダス文明のハラッパー遺跡を訪問しました。ハイウェイを離れてしかも寄り道をしばらくするというのですから護衛との交渉は相当大変になるだろうと予想していたのですが、この時の護衛の二人組は非常に親切で、文句も言わずに私の遺跡訪問に付き合ってくれたばかりか遺跡に無数に転がっていた焼成煉瓦の破片をお土産として渡してくれました。本来遺跡から物を持ち出すのはご法度なのですが、どうにもそういった様子ではなかったのでこれに関しては受け取りました。遺跡自体はレンガが積んであるとしか言いようのない場所で、見る人が見れば凄い場所なのでしょう。過去には現在よりももっと遺跡は保存されていたようなのですが、付近の鉄道建設の際に資材として古代のレンガの相当部分が転用されてしまったようです。この日は遺跡から少し進みサーヒワールへ。最初に向かった安い宿では当然のように外国人の宿泊を拒否され、町一番の高級な宿へ。例のごとく高い壁に覆われた武装警備員つきのホテルで、手痛い出費ではありましたがその分快適ではありました。案の定外に出られないので晩御飯をフードデリバリーで注文しましたがいつになっても届かず、やっと来たと思ったらバイクが事故を起こしてしまって遅れた、修理費が必要なのでチップをはずんでくれとのこと。なんで俺が?と思いましたがもう文句を言う元気もなかったし、実際哀れではあったので相場の倍くらいは渡しておきました。
 翌日もN5を走り、Pattokiという町へ。宿らしい宿はなかったので、警察署へ。最近リフォームしたようで内装はパキスタンの警察署にしては随分良いのですが、なぜかトイレだけは配水管が詰まって大洪水を起こしている電灯のない空間で、この旅で見てきたトイレの中でも一、二を争うおぞましさでした。警官たちもよく言えば友好的な人ぞろいで、何時間も何度も代わる代わるやってきて同じ話を繰り返していきます。うち一人の紹介が銃撃戦でテロリストを二人射殺した英雄というものだったのですが、パンジャーブもここまで来て安全になっただろうと勝手に思い込んでいた私にはいい刺激でした。さてそういった会話の合間に、晩御飯は必要かと三度聞かれたのですが結局待てど暮らせど出てくることはなく、四度目でやっと食事が出てきたころにはもう夜もだいぶ遅くなっていました。もちろん、泊めてもらっている上に食事まで出してもらっているのですから大変ありがたいことではあるのですが、それを容易に帳消しにしてしまうだけの圧倒的なストレスがコミュニケーションに必ず伴うのが土地柄です。実際私は可能であるなら必ず宿を見つけて閉じこもっていたわけです。さてそうこうして過ごしていると、警官のうちの一人が誰かと電話を始めてそして私に代わりました。電話の相手は昔日本で働いていたという男性で、今でも非常に流暢な日本語を話す方でした。そして彼と電話していて思ったのですが、まず何といっても相手の言っていることをちゃんと聞き、理解している。冗談ではなく同じ相手との会話でどの国から来たのかを五分おきに三度聞かれるパキスタン・インドにおいて、これは衝撃でした。私は当時同じことを何度も言ってやっと相手に伝わるという世界に慣れ切っていたため、これは人間の側に問題があるのではないかと本気で疑い始めていましたが、そうではなくこの社会こそが人をこうするのだと知り、少し安心しました。彼も私が何も言わずとも大体どういうことが大変なのかは察してくれたようで、僕に伝えればちゃんと彼らに伝えるから、大変だろうけど頑張って、との心強い言葉を頂きました。そう、この察するという所作、会話が自分の言いたいことを一方的に捲し立てるだけである彼の地でまずお目にかかることのないものです。
 翌朝、遂にパキスタン走行最終日。僅か50kmほど先のラホールを目指して走りだそうとするのですが、護衛の車が出払っているからお前はここにもう一泊するのだと制止されます。昨晩から二十回は明日ラホールへ行くということを伝えていてこれですから、慣れていたとはいえもう言葉もありません。とにかくこういった時に大事なのは、喧嘩にはならないようにしながらも警官の中から比較的まともな人物を探しだして助けを求めることです。この時も幸いに一人話の通じる警官を見つけ出すことができ、彼がパトロールに出ていた車両に電話を一本入れたら、それですぐに解決しました。その程度のことでも、自分から何か行動を起こさない限りは何も話が進まない。同じ頼みも三回目までは挨拶のようなもの。パキスタンで生き抜くための知恵です。
 やっと警察署を出て走り出すと、ラホールまではすぐです。ラホール警察の管区に入るあたりで護衛交代のために止まったのですが、待てど暮らせど交代が来ません。しびれを切らした護衛たちは、もうお前自力で何とかしろと言い残し帰っていきました。N5ハイウェイ上、ラホールのシティ・リミット。ここで遂に、イラン国境以来2000kmに及ぶ護衛たちとの喜と怒ともう一つ怒とそして嘘に満ちた旅が終わったのです。私は久々に本当に清々しい気分になりました。私は本当に嬉しいことがあると現実感が湧かない人間のようですが、この時もそうでした。とりあえずは少し走ったところにあったKFCに入り、昼食を食べながら宿を探しました。あぁ、昼食に立ち止まるのにも口論じみた無駄な交渉をしなくてよい!自由とは素晴らしいものです。そして自由を享受するためにはやはり平和でなければならない。ラホールはパキスタンの中ではかなり治安が保たれている街で、やはり他とは違います。宿の方も無事、半額セールをやっていたバスタブ付きの立派な部屋を見つけることが出来ました。この一か月ありとあらゆる劣悪な環境に耐え続けた自分、護衛交代の度に車に乗れと言われても誘惑に勝ち続けた自分(彼らにとっては大変な迷惑だったでしょう)、最後には遂に走りぬいた自分、全ての自分へのご褒美のバスタブはなんとも甘美なものでした。


最後に息抜きを ラホール

 さてラホールの滞在はわずか一日。パキスタン随一の文化の中心であるこの街を見て回るにはあまりにも短い時間であったことは間違いありません。是が非でも早くパキスタンを脱出したかった私は、むしろラホール滞在をたったの一泊にして、何も見ずに翌朝そのままインド国境まで行くことすら考えたのですが、さすがにと思い一日は観光に費やすことにしたのです。とはいえ、実際に出国を翌日に控え、護衛もつかず情勢も比較的安定しているとなると、これまでとは打って変わってパキスタンを最後に楽しもうという気分になってきます。ですからまずはラホール観光の目玉、バードシャーヒー・モスクへ向かいました。ムガル帝国皇帝アウラングゼーブによって建設されたこの巨大なモスクはパキスタンのシンボルの一つであります。概ねペルシア建築の様式を踏襲しているように見えますが、ミナレットなどにインド様式が見えます。内部では敬虔な信徒たちが祈りを捧げていました。その次は向かいのラホール要塞へ。こちらはあまりぱっとせず、タクシーを呼んでラホール博物館へ向かいました。パキスタンを中心とした地域の非常に充実した展示を誇っており、イギリス植民地時代の重厚なコロニアル建築と合わせてお勧めの場所です。
 

バードシャーヒー・モスク。
ラホール博物館にて、ガンダーラ様式の仏像の傑作。古代ガンダーラは現在のペシャーワルを中心に栄え、ギリシア美術の影響を強く受けつつ歴史上はじめて仏像を作った。

 博物館を出ると、次は昼食を食べに評判の良いビリヤニ屋へ。スパイスからくる絶妙な酸味と、ライタというヨーグルトソースに肉の旨味が合わさって完璧な味でした。食後は宿へいったん戻り休憩、夜になって帰りのタクシーの運転手が「肉を食うならここ!」とお勧めしてくれたラクシュミー・チョウクという一角にあるレストランへ。最後の晩餐はこれ、とチキン・カラヒを注文しましたが、間違えて倍の量を注文してしまったことに加えて味もそこそこだったので、なんとも締まらない夕食となりました。その後は、いくら比較的情勢が安定しているとはいっても徒歩やバイクタクシーで帰る気にはなれなかったのでまたタクシーでホテルに戻り、バスタブにお湯を貯めて就寝しました。まだラホールを離れるには早いような気もしましたが、明日でやっとパキスタンを離れられると思うとその躊躇いも消えていきました。

パキスタンで最高のビリヤニ。
普通においしいが、感動するようなものではなかった最後の晩餐。

 翌朝、朝食を食べて一路国境へ。国境へはわずか30km、護衛がつくこともありません。ラホールは世界一大気汚染が酷い都市として有名で、朝は特に濃霧と合わさって強烈です。しかしそういった環境にももう慣れ切っており、溜息以上のものが出てくることはありません。聞いた話によれば、インドはパキスタンよりずいぶん発展していて、パキスタンではいつものように起きていた停電などは珍しいようです。ほかにも、スターバックスを筆頭に西側資本の進出も著しいと聞きます。そうこうしている内に国境へ着き、パスポートコントロールへ向かいます。パキスタンとインドは独立以来犬猿の仲で、三度にわたる印パ戦争を戦っています。そのため長大な国土を接しながらも通過可能なのはこのラホール・アムリットサル間の国境ただ一つ。なんとも危険な匂いのする背景情報ですが、一方で唯一の国境ということもあり多くの旅行者が通過するため、設備と対応ともに非常に整っています。イランからパキスタンへ入るときあれほど苦労したのとは対照的に、驚くほどスムーズに私は双方の兵士に見守られながら地面に書かれた国境線を越えました。

国境のゲートでは毎日夕方に国境閉門のセレモニーがある。これは両国兵士の互いへの威嚇やそれを応援する両国国民達、そして最後に握手を交わす両国の兵士たちで有名な一種のお祭り、観光名所となっている。ご覧の通り大きな観客席まで建てられている。

 さてこの苦難に満ちた一か月のパキスタンの旅を振り返ってみて、また同じことをしたいとはとても思えません。ポルトガルからイランまで、程度こそ違えど概ね人々は同じような方向を向いていた、もっと雑に言えば同じ世界だったと感じましたが、イランの中でもバルチスタンに深く入りパキスタンが近づくにつれて徐々に、そして国境を超えると劇的に、何か全く違う世界になったという実感がありました。正直に言って、私は全くそれに対応できなかった。私にとって現地の殆どのことは苦痛でした。そういった社会自体の過酷さに加えてテロの危険があり、そのため護衛がつき自由もない一か月の旅。日本でぬくぬくと過ごしている今の自分から改めて振り返ってみると、全ては現実感のない夢のようで、あの場所をこの自分自身が自転車で走り抜けたとはとても信じられません。しかしそれでも最後に言わねばならないのは、私は多くのパキスタン人のすばらしい無償の親切さに何度も何度も救われたということです。護衛の警官達と私の関係は一言で言って化かし合いでしたが、その中でも数えきれないほどの親切な警官達に大いに救われたこともまた事実です。自転車で走るという我儘を最後には聞いてくれた彼らに対し、感謝の念が消えることはありません。またラホールでは、タクシーの運転手がせっかく外国から来てくれたのだから、と街の案内を一切無償で歓迎として提案してくれることもありました。後からお金を請求されるようなことは無いという確信はあったのですが、いかんせん都合がつかなかったため断らざるを得ませんでした。しかしパキスタンの後インドに行ってこそ、それがどれほど凄いことだったかわかるのです。インドだったらあれは間違いなく後で揉めていたでしょう。思えば、パキスタンにいたころの私はまだ少し人を信じていたようなところがあったと思います。私が人という人を一切信じなくなったのは、むしろインドに入ってからでした。しかしそれでも、もうテロや誘拐に怯えずともよいというのは、抗えない魅力だったのです。


森本 太郎 Taro Morimoto
1999年生まれ。現在は大学院を休学中。
一年八か月にわたる旅を終え、十二月初頭遂に東京へ帰還。
現実に少しずつ身を慣らしながら、この連載を完結させたい。
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文・写真 森本 太郎



撮影機材
Camera:
OM SYSTEM OM-1
スマートフォン
Lens:
M.ZUIKO DIGITAL ED 12-40mm F2.8 PRO Ⅱ

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